top画像

top画像

解説

解説

ラベル2

ブログ アーカイブ

連絡フォーム

名前

メール *

メッセージ *

2016年7月27日水曜日

仏子の地名の由来を探る!

丘陵が涅槃像に似ていませんか?

 仏子はズバリ言えば、仏につかえる子であり、信心することで来世に仏になれるということと理解している。仏子の加治丘陵の北側地区には、高正寺、円照寺、長徳寺、南側の山麓には東から西に東光寺、龍園寺、豊泉寺、光円寺、高養寺などがあり、これを上回る神社もある。歴史的に宗教心、信仰心の強いエリアを感じさせ、「仏子」の名に恥じない地域のように思う。

この姿と地名の由来は密接不可分である。詳しくは後に譲るが、地名の由来としては①仏子と呼ばれる地形に位置する、②高名な僧がいた、③高名な武士がいた・・・から、などいくつかの説がある。

3つの説のなかでは、高名な僧特に見当たらないし、高名な武士については金子、加治というかたちですでに残っている。このため①を押す説が強い。だがこの説も、本末転倒のきらいがあるように思う。「仏子」は丘陵地の高台と平地の結節点を表すとされ、「星」「藤」「縁」「武士」「崖=ハケ」などの付く地名と似た意味を持つとされる。ではどんな地形かといえば、太古の洪水や大雨で、川の下流に土砂、礫(レキ)、岩など押し流され、堆積してできた丘陵地と平地の接点の地形という。

    加治丘陵、狭山丘陵ともに、このように多摩川などの洪水で形成されたモコモコとした台地だ。その端はその後の川の流れで洗われ、時に何段もの段丘を形成する。丘陵ー段丘ー段丘の間は切り立った崖状になり、これをハケと呼び、その下部に泉が沸いている場合も多い(その一つが仏子地区の野田にある「矢田の泉」)。
写真① 釈迦の涅槃像
写真② ヤオコー屋上から眺めた加治丘陵。上=西流れの像 涅槃像をイメージできる箇所は2つある。

写真③ 下=東流れの像(リバーサイドの駐車場より)

こうした丘陵地と平坦地の結節点が「仏子と呼ばれる地形」とされる。なぜ「仏子」と呼んだのか不明だ。どこにも説明が出てこない。当方の推定では「釈迦の涅槃像」と関係あるように思えてならない。写真のように涅槃像は頭、肩、胴、腰と凹凸があり、足先にかけ丘陵のはずれのように低くなる。まさに加治丘陵はこれに似た凹凸がある。遠くから一度眺め直してほしい。そして、像の周囲はストンと落ち込むが、加地丘陵の側面も切り立った崖ばかりで、なだらかなスロープは1つもない。その裾に沿い仏子側にも南の金子側にも人家が古くから張り付き、弟子たちが釈迦の入滅を悲しみ取り囲むかのようである。

   この「仏子名の由来説」は、あくまで個人的な見解である。それにしてもネット検索し、仏子の地名は皆無に近く(1ケ所のみ出てきたのは徳島県三好市山城町仏子。ネットで県別に仏子の名を置き検索しても出てこない)、貴重な地名に間違いない。

と同時に地形由来の仏子が全国に1つしかないとすれば、この一帯の地形がたまたま涅槃像とこれを囲む弟子たちの姿と似ているので古くから仏子と呼んだ。明治以降に地層・地形学が発達し、特徴ある地形がたまたま仏子に位置するので「仏子型の地形」とした・・・と推定でき、先に「仏子と呼ばれる地形」があり、ために仏子の名がついたというのは間違いだと思う。何百年も前に地形学、地層学的な名称など確立するはずがないからだ。

仏子という名が全国に少ないのも、仏子層に近い地形・地層があったとしても、そこには従来からの地名があるからだと思う。

追記・・・「アイヌ語だ」と決めつける方にも2人出会ったが、ネット上の2つのアイヌ語辞典を検索してみると、最初の文字がブはもちろんバビブベボで始まる単語は皆無(パピプペポは逆に多い)。英語のアイヌ語辞典でも頭がBやVで始まる単語はゼロである。以上からすると、アイヌ語説の可能性はかぎりなくゼロに近い。

<お礼>本欄については、誰かがfacebookで紹介してくれたのだと思う。平成28年12月11日~12日には各150ほどのアクセスがあり非常に喜んでいる。

世界一の涅槃像は福岡・篠栗町に!

仏子研究からすると枝葉に属する話になるが、世界一の涅槃像が福岡県篠栗町の南蔵院という寺にある。全長41m、高さ11mという巨像である。偶然だが大学の友人が地元に住み、九州旅行の際に泊めてもらい、この際涅槃像を実際に見た。先の写真と違い頭をもっと持ち上げている。全体がブロンズ製で青銅色である。


徳島県三好市の仏子は仏師から変化!

三好市山城町の仏子(ぶっしーと読む)については、実際に三好市に地名の由来に関係する資料を送っていただいた。残念ながら「地形由来の地名」ではないようだ。市の地名に関する資料には「仏像などを作る仏師・友信が来て住み、仏師という名で呼ばれたものが、のちに仏子と改まった」という短い記述がある、
付近は山岳地帯で596m、1020m、980m、926mなどの山に囲まれ、かなり山間部といえる地形である。したがって小字の仏子地区の世帯数は21、人口は33人と少ない過疎地だ。付近を吉野川の支流が流れているが、平地に山の土砂が流れ台地を形成しているとは思えない。したがって涅槃像に似た台地ではないようだ(地元の地図も送っていただいた)。 本ブログに「入間市と徳島県三好市の市対応の違い」を掲載してある。是非こちらも読んで欲しい。入間市の1/5の人口しかないのに、三好市は入間市の数倍もやる気のある市ということが分かる。

阿蘇山は涅槃仏!

   熊本県の阿蘇山は遠くから見ると涅槃仏の形に見えるそうで、山自体を涅槃仏として崇めているようである。このことからも加治丘陵とこれを取り巻く集落の姿から「仏子」という地名が生まれたとしても不自然ではない。

写真の根子岳が顔、高岳が胸、中岳が腹、烏帽子岳と杵島岳が膝

2023年11月7日(火) 仏子の歴史を追う

 西武わが街研究会の調査資料によれば・・・正保田園簿(正保は西暦1644~1647年)によれば、仏子村は高麗郡加治領に属し、水田23石、畑63石で、当時代官支配地であったとある。宝永3年(1706年)に、旗本・鈴木氏の知行地に。宝永1年(1704年)、武蔵野国高麗比企西郡は550石。このうち90石弱が仏子村の知行地であった。遡る寛文8年(1667年)の検知では、53町2反歩余であった。そのうち屋敷が2町2反歩余。

 仏子村は近世当初より、様々な農家的な商品生産物をつくり、カキの木等の育成に努力。「甲州丸」「霜丸」を売り出した。特に養蚕や機械織りに力を入れ、木綿織の反物が稼ぎとして盛んにおこなわれた。  

西暦1644年と言えば、今から357年前である。仏子の名は、もっと前からあったはずで、こんな時代に地質・地層学があるはずがなく、「仏子層があったから仏子の名がついた」ということはあり得ない。むしろ仏子という地区に、特殊な地層があり、これを「仏子層」と名付けたのが本当だろう。

仏子の名に、多くの人が興味を持ってくださり有難うございます。2023年12月8日現在, 本項のアクセスは5,925で、当ブログの2位である。