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2022年11月27日日曜日

新田次郎さん(故)と福井県の旅

 1.名刺の裏に流れる字体で書いたもの

  JA系雑誌社「家の光協会」の編集部に勤務していた昭和38年のことだ。正月休みに作家の新田次郎さんと福井県の旅に出た。当時私は27才、新田さんは53才ほど。夜行列車の車中泊を含め4泊3日の旅である。雑誌「家の光」(当時月180万部に近づきつつあり、日本一の部数)の企画ではなく、JAマンや農村エリート向けの「地上」誌(15万部?)の企画だった。

地元出身の有名人10人前後に、県内の3名所を選んでもらい、そこを作家が旅し紀行文を書いてもらう・・・というものだった。福井県で選ばれたのが①三方五湖、②永平寺、③東尋坊+芦原温泉。推薦者の中には俳優の宇野重吉氏、作家の水上勉氏、詩人の西城八十氏、主婦連合会の奥むめお氏、元農林次官の小倉武一氏などが含まれていた(すでに故人ばかり)。50年以上前のことで、改めて当時の「地上」38年4月号のコピーを家の光からいただき、確認できたことである。

下記の短歌は、東尋坊と芦原温泉を訪ねた際、翌朝旅館を出る前に新田さんが即興で詠んだ短歌である。当方の名刺の裏にすらすらと流れる字体で書いてくれた。小さな額に入れ、地元の喫茶店に一時展示したものの、せいぜい30人ほどの目に触れたに過ぎない。

尋ね来し 芦原のお湯に 咲く花の 
    黒き衣の やさしかりけり              昭和三十八年一月四

「黒き衣」とは、3日の夕食時に招いた40代くらい?の芸子さんのことである。芸子さんは「芦原温泉の華」であり、「心温まる接待をしてくれた」と、感謝の気持ちを表したシンプルなものと思う。だが、新田さん自身の「やさしさ」が存分に詠まれている。ネットを見ると、新田さんは辞世の句として「春風や 次郎の夢は まだつづく」が出てくるものの、俳句や短歌集というものは見当たらない。しかし几帳面な方なので、手帳などに沢山の俳句や短歌を書き記したのではないか。ともかく新田さんは世話になった人への配慮が、特に行き届いた人である。原稿を貰いに当時の気象庁に行くと、修正の入った下書き原稿をくれた。どこの雑誌の担当者に対しても、同じサービスをしたものと信じる。

2.なぜ正月休みの旅になったか
    恥ずかしいことだが、最近になりやっと新田さんの「富士山頂」(昭和42年9月発表-別冊文藝春秋)を読んだ。ここには克明に昭和37~39年当時の新田さん自身が描かれている。富士山頂上に世界最大出力の台風観測のレーダーを建設する国家プロジェックは、27年に予算が通り(3年越し)、38年、39年の2年間で設置工事を完了させることになった。37年に新田さんは測器課長に昇進していたが、富士観測所に勤務経験もあり、無線のエキスパートである氏は、予算作成から設置完成までの中心人物だった。

 すでに処女作の「強力伝」を昭和30年に発表し「役人作家」として気象庁内ほか広く認められる存在だった。新田さんの偉さは2足の草鞋を履きながらも、「公務に影響が出るような作家作業であってはならない」と固く自己規制していたことだ。このことは「正月3賀日の取材ならOK」ということにもよく表れている。富士山の気象条件は日本一過酷で、工事日程は夏場の限られた日のみ・・・38年の正月休みは、レーダー建設作業を前にしたしばしの休戦期間だったはず。

農村雑誌の編集部といっても、「家の光」の編集部は大所帯だったが、姉妹誌の「地上」は部数が少なく、編集部員は7人ほどに過ぎない。部員の多くは3Sと呼ばれる小説、シネマ、スポーツ等のほか一般的な政治・経済、家庭問題も担当するものが4人ほど、農業技術+経営を担当するもの2人、その上に編集長。農工大学農学部出の私は、いやでも後者の担当。先輩記者が忙しいときに代理で作家の自宅に原稿を取りに行く程度。故・水上勉さん宅に原稿をもらいに2回ほど行ったことがある。

「誰か、新田次郎さんと一緒に福井に行けないか」と、編集長が募集をかけた。先輩記者は妻子もいるため正月は家でゆっくりしたい。当方は結婚後まだ数か月で、子供も生まれてなかった。「それじゃ、私が行きます」と手をあげたものの、文学青年’に程遠く、新田次郎さんの本をまだ1冊も読んでいなかった。

このため、急ぎ氏の出世作の「強力伝」1冊だけを読み、「どうにかなるだろう」と当日を迎えた。昭和27年12月31日のことである。私の家は東京の荻窪、新田さんの家は中央線で西に2つ目の吉祥寺。同じ中央線族である。夕方4時ごろに家を出て、吉祥寺駅に行き、確か五日市街道のケヤキ並木を超えた場所の新田邸を訪ねた。奥さんが座敷に迎え入れてくれ、一緒にお茶菓子をつまみながら1時間ほど雑談。

奥さんが席を立ったすきに、新田さんは「じつは妻が先に作家になり、報道関係者が押し掛け、これに発奮して私も小説家になる決心をした」と耳打ちしてくれた。奥さんの藤原ていさんの「流れる星は生きている」についても、本来知っているべきだが、私にとっては初耳だった。

6時ころに奥さんに送られて家を後にしたが、このとき新田さんのいで立ちが印象的だった。私は1着しかない冬の背広にオーバー、そして靴も1つしかない並みの革靴。持ち物はボストンバックと会社所有のカメラ。新田さんは鳥打帽に登山向きの厚手のコート。その下にジャケットにチョッキ、ズボン。足のほうは頑丈な登山靴であった。

新田さんは山岳小説家と言われ、気象学者でもある。冬の北陸地方、そして軽い山登り(三方五胡での)を頭に描き、すべてを整えたようだ。私のほうは、気象や地形への配慮が全くない馬鹿げた服装だった。
<写真>三方五湖を眺める故・新田次郎さん(地上誌の原稿より)

3.三方五湖を眼下に丘下り
 東京駅に出て、寝台車でゆっくり米原に行き、敦賀―三方五胡のある三方駅に着き、このあとバスで海山という部落まで。着いたのは元旦の朝8時くらいだったはず。三方五胡の見える梅丈岳(バイジョウガタケ=395m)に楽に行くにはタクシーに限る。だが元旦とあってタクシーなど1台も見当たらない。とほうに暮れていたとき、小型トラックに乗った地元農家の50代の方が声をかけてくれた。「お困りのようですね。どこまでですか」「どうしても梅丈岳に行きたいのです」「それじゃ送りますよ」。この好意にすがることとした。

男性は新田さんだとは知らなかったようだが、名を紹介し目的も告げた。雪が少なく、なんなく頂上部に連れていってくれた。感謝の印を渡そうとしたが断られた。心からお礼を述べ、握手をして別れることとなった。新年早々から純朴な農家の方に会え、農村記者とすれば「好スタートが切れた」と喜んだ。

頂上は晴れ渡り、薄く雪がつもり輝いていた。一部の雪は解けて土が出ていた。眼下には五湖が東から日向湖、久久子湖、管湖、水月湖、三方湖と連なっていた。ここからは、新田さんの紀行文そのまま紹介しよう。

「五湖は・・・一湖一湖が、それぞれの個性を象徴するような形を持っていた。日本海の色に比べると、五湖の色調は沈んで見えた。緑色よりもむしろ青くさびた色だった。雲が動くと光の刺し方が変わった。雲間に洩れる光が湖の上をまともに照らすと、湖はサファイアのように輝きだし、光が雲にかくされると、冬のつめたい表情にかわった。私はこのすばらしい景観に打たれた。これほど美しい場所が日本にあったことを知らなかった自分を恥じた。・・・この絶景を見たあとでなにがあろうか、・・・私はこの足で東京に帰りたかった」 (・・・は一部省略箇所)。 写真はいただいた下書き原稿  


下の海山部落までは歩くしかなかった。天気が良く、歩けば厚着のため汗が出る。私は脱いだオーバーを丸めたものとバッグを、持っていた手ぬぐいで結び、振り分けにして肩に乗せ、山を下ることにした。浅い雪が日光で解け、べたべたしており革靴では滑る。両手を自由に使えないと事故につながる・・・と考えたからだ。新田さんが安定した足取りで下るのを、後から私がヨタヨタと追いかける。途中、何度も転びかけることもあり、厳しい旅の初日になった。このため「福井3ケ所巡り」と言っても、三方五湖のみが新田さん同様に、一番の思い出となった。新田さんも私も、ともに永平寺や東尋坊+芦原温泉は再度の訪問で、新鮮味をかんじなかったことも理由だろう。

 手帳に丹念にメモをする几帳面さ、そして接する人すべてにやさしい・・・こんな新田さんに惚れぼれした2泊3日の旅だった。新田さんは小説家に専念するため昭和41年に気象庁を辞められたが、私もまた新田さんから学ぶものがあり、志を抱き昭和40年に29才の若さで「家の光」を辞めた。

2022年11月26日土曜日

入間川の筏流しはリスクとロマン

 

写真:入間川のものではなく、かつ現代において再現したもののようです!

 名栗川の上流部の西川材を、入間川―荒川を経て江戸の千住・深川まで運ぶ・・・その主な手段が筏流しであった。筏流しは江戸の中期から、武蔵野線(今の西武池袋線、大正4年開通)が出来た大正の初期まで続けられたようであり、スタート時については正確な記録は残っていないが元禄時代(1688~1703年)というから300年以上前からになる。。 

 江戸時代、今の東京は急成長をとげ、また大火も頻繁に起き、木材需要はウナギ登りであったはず。トラックや鉄道のない時代、木材の筏流しは廉価で迅速な輸送手段であった。名栗から江戸中心部まで筏であれば4~5日で行け、大火などで需要が急騰したときは、一攫千金のロマンあるチャンス。流すタイミングが問われた。名栗方面は江戸に近い部類で、林業者、筏師ともに筏流しに情熱を注いだはずである。 荒川に入れば川幅も広く、流れもゆるやかになるので、筏をさらにつなぎ合わせ、このため名栗の筏師は川越まで運び、戻ったはずである。

 筏1枚は0.mから1.mの幅で、長さはまちまちで9~14.5mほど。名栗川の上流部では1枚で、下流部では2枚で流し、水量を見て飯能河原で複数つなぎ合わせる。何枚につなげたかははっきり分からない。埼玉県は県の面積に占める川の面積は日本一だそうだが、名栗川と成木川が合流した入間川となっても、水量が少ない部類の川である。楽々と筏流しができたわけではない。出水は「吉時」とされ、雨上がりの水量の多いときを見て断続的に流したようである。

入間市の黒須当りまでが上流部とされたようで、各所に水をせき止め水田や水車等に流す堰があり、川に竹で編んだすのこ状のものを敷き、このすのこ状の上に魚を誘導し捕る簗がある。これらを筏が壊すことがあり、14地区ほどの当時の市町村が取り決めして、1ケ所ごとに当時の金で3~4践の賦課金が徴収されたようである。 仏子のリバーサイドは昔は水田だったという。そして水車小屋も存在した。これらに水をおくるため、今の中橋上流部に堰を設け分水していたはず。明治時代の1円は今の2万円に相当。4践は今の金で800円ほど。堰や簗が10ケ所あれば8,000円を上納することになる。夜は筏師は寝るので、河川沿いには船宿地区が存在。この費用もかかり、さらに下記のような訴訟費用もかかる。

 黒須から下の方にも堰、簗や木製の橋がいくつもあり、これに当たって壊すことが度々おこり、地元が奉行所や裁判所に訴えた記録が多数残されている。この記録については15年ほど前、飯能市の図書館でコピーして保存していたのだが、残念ながら今探しても見当たらない。いずれにしても、筏流しには大きなロマンとともに大きなリスクがあったことが分かる。リスク以上のメリットを得るため、筏の横幅や長さを少々ごまかすことも行われたと記されている。

 結局、各種のリスクを考えると、大きな後ろ盾が必要・・・このため筏師は本来、山地を背景とした「材木を扱う経営者」を指し、実際に筏を流す人は「筏乗り」と呼ばれ、18~19才ほどで修行にはいり、1~2年の見習いをし2年で1人前とされた。


2022年11月22日火曜日

武蔵野音大のホール「バッハザール」は仏子の宝物

 

 写真① 中央にパイプオルガン。木の美しさを発揮した舞台に天井と壁。

  11月20日(日)に仏子駅南口から5分の武蔵野音楽大学入間キャンバスの大ホール「バッハザール」で、入間市合唱連盟と入間市教育委員会共催の「入間市民合唱祭2022」が開催された。この中身は後で触れるとして、驚いたのはホール「バザール」のすばらしさである。20年仏子に住み、アミーゴや西武公民館などで開催される合唱や演奏会には度々出席もしてきた。だが、「バッハザール」の存在を知らずにきた。加治丘陵の展望台に登るため、音大すぐ脇の急坂を何度か登った際、「急峻な丘に校舎が展開する珍しい学校だな」と興味を持ったものの、中を見るに至らなかった。







                   写真⓶ 鋭角的な木の柱状の横壁。音を集める効果を狙ったものか?









 



写真③ 休憩エリアの彫刻

今回、やっと校門を入ることができ、50mほどの坂を登り「バッハザール」にたどりついた。4人の仲間と建物に入り、そのホールの耀きに接し圧倒された。3階建て以上とも思われる高い天井。天井だけでなく壁も含め木目も見える美しい板が張られている。左右の壁は音を集めるためか階段状にいくつもの凹凸がつくられている。そして中央正面には3階建てに匹敵する形でパイプオルガンがはめ込まれている。舞台といえば、奥は傾斜状に何段かに分かれた床があり、その前には「100人でもドンと来い」の広い平面の舞台がある。1階下がった休憩場風のところには、素晴らしい彫刻が10ほど展示されている。 

 仏子のキャンパスには武蔵野音楽大学の1,2年生が通っていたのだが、江古田の本校の新設校舎に移りすでに久しい。「バッハザール」は、主人公不在のまませっかくの宝物が、朽果てる存在になりはしないか・・・心配するのは私だけではないはず。音大、入間市、市教育委員会、画商談、楽器演奏者など、関係者が一体になり、「バッハザール」の維持・発展をぜひ検討して欲しいものだ。    


   11月20日の合唱祭には市内の19の合唱団が参加した。女性コーラスグループが多かったが、混成も1グループ、男性のみも2グループあった。男性グループの「白月」は仏子・元加治地区の歌姫と言える大城みほさんの指揮で、私にも馴染があり、興味を持って聞かせていただいた。豊岡高校音楽部のコーラスは最高の人数で歌ってくれた。いずれにしてもどのグループも衣装まで統一し、歌の方もかなり高いレベルなのに感心した。 

写真④ 最大人数の女性コーラス   ?
写真⑤ 豊岡高校音楽部の合唱

 望むらくは、もう30分でも時間を取り、コーラスの合間に地元優秀バンドの演奏、地元歌手の独唱なども取り入れたアクセントが欲しい。そうすれば、純・観客も増え、コーラスをする人たちの士気もさらに鼓舞されるのでは。

2023年10月7日(土)午後2時開演 第44回 市民コンサート

 会場 武蔵野音楽大学 入間キャンパス バッハザール

武蔵野音楽大学管弦楽団 指揮:和田一樹(武蔵野音楽大学講師)

 チューバ独奏:加藤 凛太朗(武蔵野音楽大学4年)