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2017年7月14日金曜日

日朝韓融和の証ー高麗神社と23の白ヒゲ神社

  入間市には金子に白鬚神社、野田にも白髭神社がある。がヒゲの字の下のところが異なる。実際は髯が加わり3通りのヒゲ神社があり、入間川と高麗川の流域には23もの白ヒゲ神社がある。全国では292社もあるそうだ。あまりに白ヒゲ神社が多すぎるので、ヒゲの字を3通りに変え、差別化したといわれている。

写真① 入間市野田の白髭神社―広く、かつ氏子の出入りも多い。
    (写真保存場所悪いため後日掲載)

西暦716年、今から約1,300年前に東国の7つの国-駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野-から高句麗人1,799人が集められ、高麗郡というものが設置されたのだ。23の白ヒゲ神社は「高麗郡」のエリアを意味するようだ。いま日高市にある高麗神社がその中心で、むかしは高麗神社も白ヒゲ神社と呼ばれていたという。

西暦710年に奈良に見事な都(平城京)ができ、仏教が盛んな奈良時代に入る。古事記(712年)、日本書紀(720年)が編纂された古い時代の話なのだ。

朝鮮半島にあった高句麗なる国(朝鮮半島北部から一部中国北部にまたがる)は、中国の唐と朝鮮半島南部の新羅に攻撃され、百済に続いて滅ぼされる。668年のことだ。このため百済の人も高句麗の人も、大挙して日本に逃げた。それは日本により高い文明をもたらすことにもなった。当初は奈良など上方方面に多く移住していたが、時の政権はもてあまし、東国への移住を促した。その東国のエリアは静岡、山梨、そして関東にまたがる広いエリアだ。「東国の高麗人を集め、高句麗を日本で再現したいと夢見て、1ケ所に集まるよう朝廷に働きかけ、朝廷が認めて高麗郡誕生となった」と見るべきではないか。
 
 この移住集団の指導者が、高麗若光である。続日本紀によれば日本の政権からその功績が認知され、従五位下という位の高い貴族の1人になっていた。神奈川県の大磯町(ここは私の腹違いの姉が長年住み、幼時・少年期に毎夏訪問)の高麗山の下の高来神社の付近を支配していたとされる。(ネットの「高麗若光」を参照) 

「高句麗を朝鮮半島で再興する夢のため」との解釈もあるが、人数規模が少なすぎるし、半島における唐の力が強大過ぎる。また西暦727年に高句麗が昔支配していた中国側の渤海地区を取り戻し「渤海」なる国を作った。「ために一部の高句麗人はここに目立たないよう戻った」とされるが、白ヒゲ神社の多さを考えれば、多くの高麗人は地元の発展に寄与する方を選択したのではないか。

写真②③-高麗神社 

本殿と手前にある鳥居。輪飾りを抜ければご利益あり?
























 いまの高麗神社は「学問の神様が祭られている」ことで有名で、写真で1例のみ紹介したが若槻礼次郎などの有名な政治家、学者などが貴重な樹木を多数寄進している。文化レベルの高さを象徴している。つまり高麗郡という文化都市を目指し、高いレベルの教育が追及されてきた証だと思う。

高麗郡誕生から1,300年・・・この間、平安時代、鎌倉時代、足利時代、徳川の江戸時代、明治・大正・昭和時代が挟まる。一般に1世代30年と言われるが、仮にこの通りだとすると、実に43代も世代代わりをしたわけで、融和を表す一つが、祭られている神が日本の「猿田彦の尊」であることからもわかる。日朝の血と文化が混ざりに混ざり、第3の融和した日本文化が創り上げてきたと言える。日・朝・韓が心から仲良くなれる日が来ることを願わずにはいられない。

写真④⑤-高名な方(最高裁判所長官・石田和外や内務大臣・若槻礼次郎・・・その他高名な方が樹木を寄進



































 なお白ヒゲの語源は新羅がなまったとの説もあるが、高句麗を滅ぼした敵国の名を、神社の名称に使うはずがない。また「高麗若光がヒゲをはやした風貌だったから」の説も当たらない。なにせ白ヒゲ神社は290も全国にあり、かつ本社は滋賀県高島市の白鬚神社と言われる。鳥居が琵琶湖に浮かぶ厳島神社に似た立派なものだ。本社まであるのに、高麗若光の「風貌」はない。本社は「延命長寿・長生きの神様」を祭っており、この長寿とヒゲが結びついているように思う。

紅葉の時期の高麗神社(令和3年12月3日撮影) 正直、もう少し紅葉がほしい。