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ラベル ③寺社・仏閣と史跡 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
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2017年9月13日水曜日

天皇陛下9月20日(水)に高麗神社他視察


 2017年9月20日(水)に天皇陛下が日高市の高麗神社(午前中)、巾着田(午後)などを視察される。引き続き21日(木)には深谷市の生涯学習センターや渋沢栄一記念館を視察。



 高麗神社の由来等は本ブログで詳しく紹介済みのため省略するが、1300年も前からの日朝の友好の歴史をあらためて確認したい・・・との陛下の気持ちによる訪問と思う。

<参照本ブログ>日朝韓融和の証-高麗神社と23の白ヒゲ神社

2017年7月14日金曜日

日朝韓融和の証ー高麗神社と23の白ヒゲ神社

  入間市には金子に白鬚神社、野田にも白髭神社がある。がヒゲの字の下のところが異なる。実際は髯が加わり3通りのヒゲ神社があり、入間川と高麗川の流域には23もの白ヒゲ神社がある。全国では292社もあるそうだ。あまりに白ヒゲ神社が多すぎるので、ヒゲの字を3通りに変え、差別化したといわれている。

写真① 入間市野田の白髭神社―広く、かつ氏子の出入りも多い。
    (写真保存場所悪いため後日掲載)

西暦716年、今から約1,300年前に東国の7つの国-駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野-から高句麗人1,799人が集められ、高麗郡というものが設置されたのだ。23の白ヒゲ神社は「高麗郡」のエリアを意味するようだ。いま日高市にある高麗神社がその中心で、むかしは高麗神社も白ヒゲ神社と呼ばれていたという。

西暦710年に奈良に見事な都(平城京)ができ、仏教が盛んな奈良時代に入る。古事記(712年)、日本書紀(720年)が編纂された古い時代の話なのだ。

朝鮮半島にあった高句麗なる国(朝鮮半島北部から一部中国北部にまたがる)は、中国の唐と朝鮮半島南部の新羅に攻撃され、百済に続いて滅ぼされる。668年のことだ。このため百済の人も高句麗の人も、大挙して日本に逃げた。それは日本により高い文明をもたらすことにもなった。当初は奈良など上方方面に多く移住していたが、時の政権はもてあまし、東国への移住を促した。その東国のエリアは静岡、山梨、そして関東にまたがる広いエリアだ。「東国の高麗人を集め、高句麗を日本で再現したいと夢見て、1ケ所に集まるよう朝廷に働きかけ、朝廷が認めて高麗郡誕生となった」と見るべきではないか。
 
 この移住集団の指導者が、高麗若光である。続日本紀によれば日本の政権からその功績が認知され、従五位下という位の高い貴族の1人になっていた。神奈川県の大磯町(ここは私の腹違いの姉が長年住み、幼時・少年期に毎夏訪問)の高麗山の下の高来神社の付近を支配していたとされる。(ネットの「高麗若光」を参照) 

「高句麗を朝鮮半島で再興する夢のため」との解釈もあるが、人数規模が少なすぎるし、半島における唐の力が強大過ぎる。また西暦727年に高句麗が昔支配していた中国側の渤海地区を取り戻し「渤海」なる国を作った。「ために一部の高句麗人はここに目立たないよう戻った」とされるが、白ヒゲ神社の多さを考えれば、多くの高麗人は地元の発展に寄与する方を選択したのではないか。

写真②③-高麗神社 

本殿と手前にある鳥居。輪飾りを抜ければご利益あり?
























 いまの高麗神社は「学問の神様が祭られている」ことで有名で、写真で1例のみ紹介したが若槻礼次郎などの有名な政治家、学者などが貴重な樹木を多数寄進している。文化レベルの高さを象徴している。つまり高麗郡という文化都市を目指し、高いレベルの教育が追及されてきた証だと思う。

高麗郡誕生から1,300年・・・この間、平安時代、鎌倉時代、足利時代、徳川の江戸時代、明治・大正・昭和時代が挟まる。一般に1世代30年と言われるが、仮にこの通りだとすると、実に43代も世代代わりをしたわけで、融和を表す一つが、祭られている神が日本の「猿田彦の尊」であることからもわかる。日朝の血と文化が混ざりに混ざり、第3の融和した日本文化が創り上げてきたと言える。日・朝・韓が心から仲良くなれる日が来ることを願わずにはいられない。

写真④⑤-高名な方(最高裁判所長官・石田和外や内務大臣・若槻礼次郎・・・その他高名な方が樹木を寄進



































 なお白ヒゲの語源は新羅がなまったとの説もあるが、高句麗を滅ぼした敵国の名を、神社の名称に使うはずがない。また「高麗若光がヒゲをはやした風貌だったから」の説も当たらない。なにせ白ヒゲ神社は290も全国にあり、かつ本社は滋賀県高島市の白鬚神社と言われる。鳥居が琵琶湖に浮かぶ厳島神社に似た立派なものだ。本社まであるのに、高麗若光の「風貌」はない。本社は「延命長寿・長生きの神様」を祭っており、この長寿とヒゲが結びついているように思う。

紅葉の時期の高麗神社(令和3年12月3日撮影) 正直、もう少し紅葉がほしい。








2017年1月29日日曜日

仏子の稲荷神社-道路脇や庭内に多数!

  仏子地区を散策していると、赤く塗られたごく小さい稲荷神社が目に付く。道路端や庭先の一隅に何気なく祭られている。稲荷神社は京都市の伏見稲荷大社が本社とされるが、全国に32,000+アルファーと無数にあり、仏子地区で見かけるものは、この「+アルファー」に属するものである。伏見稲荷から直接主祭神として分祀されたものとしては、久保稲荷神社や上小谷田の中野原稲荷?がある。
写真①新久の交差点近くの道路に面した稲荷神社
写真② 新久の住宅地内の稲荷

「稲荷」はイネを表し、もともとは穀物や農業の神様であるが、これが商業や工業にまで拡大解釈され、江戸末期~明治時代には農業・商業・工業の安泰を願う庶民の間に急速に広がったようである。仏子周辺部の野田や神久などに稲荷神社の小祠が多いのも、これらの地区がそれだけ農業や商工業が発達していた証と思われる(神に守って欲しい繁栄があった)。中には赤く塗られていない小祠も結構ある・・・これはどう捉えるべきか分からない。
写真③ 新久の道路に面した空き地の稲荷
写真④西武図書館-アミーゴ間の駐車場にある稲荷


なお、稲荷神社にはキツネの像も置かれているのが普通だが、稲穂がキツネの尻尾に似ていることから、稲荷神社の警護役に抜擢されたようだ。稲荷神社のお供えとして、コメの俵に似せて油揚げで包んだものが使われ、後に「稲荷寿司」と呼ばれるようになった。三角形の形がキツネの耳に似ているから・・・との説もある。
写真④  屋敷内の小祠ー稲荷神社ではないはず。新久や元加治にある


2016年9月20日火曜日

新久・八坂神社 (新久948)


―加治丘陵の丘の頂上に建つ―


新久とは「新しい開墾地」のことで、加治丘陵の小高い頂上部のさらに石段の上部に建立されている。付近まで住宅が押し寄せ、樹木も多く、遠くまで眺望できないのが残念。境内のヒノキは立派である。祀られているのは仏子側の八坂神社と同じスサノウノミコトとともにオオナムチノミコト、クシイナダヒメノミコトである。


 
いつ建立されたか不明だが、明治から八坂神社となり、明治15年に本殿、同45年に拝殿が回収され、さらに年を経て平成16年の11月に本殿、拝殿の改装がされ、まだまだ真新しいさを感じさせる小さなコンパクトな社殿である。本殿・拝殿ともに切妻作り。本殿の屋根には本格的神社に見られる3本の角のような飾りが出ている。拝殿はコンクリート造りだが、拝礼するときは本殿扉の金色の豪華な金具が、今も輝いている。















(上)拝殿




(右)本殿


















(下)本殿扉の金の金具


軽内の一部に起源2600年の祝いに奉納された(大正元年)、大きな鬼瓦も置かれている、その奥がヒノキの大木の林になる。

八坂神社 (仏子942)

-仏子地区の鎮守と子育て支援施設-
 
   仏子駅のプラットホームかたも本殿が見え、駅からわずは2分・・・サクラやイチョウの大木があり、春にはサクラの花びらが舞い、秋にはギンナンの雨が降る。いずれにせよ、緑陰に取り巻かれた落ちついた神社である。

 仏子の村社として6社あったものが、明治5年に諏訪山に合祀されたものが、さらに明治37年になって現在地に移転、明治41年10月に社殿が建立された。このとおりで、間違いなく仏子地区の鎮守様である。祀られいるのはスサノウノミコト。スサノウは月、太陽、金星を一体化した「金精神」というが、どういうご利益に結びつくのかは、勉強不足でよく分からない。

 拝殿と本殿の2つからなり、前者は入母屋造りの重厚なものだ。本殿は切妻作り。後者は立派な板塀で囲まれ一体化されている。隣の敷地の西側から見れば様子が分かりやすい。これらは大正9・10年に改築され現在に至る。

 
 鎮守様というだけでなく、現在は入間市の「広場型の子育て支援施設」の役割を担っており、毎週木曜には子育て中の親が寄り、子供同士や親同士の交流の場、子育て情報収集の場になっている。神社の今後の役割を問いかける貴重な存在である。

2016年2月27日土曜日

龍園寺 (新久717)

椎の巨木と自然石の壁が美しい!

境内正面にある本堂は昭和42年に再建、左手の観音堂は大正3年の再建と、年代の新しい建物が中心。それだけに明るさが前面に出た真言宗の寺である。正式名称は龍岳山「龍園寺」で、真言宗智山派に属し、本尊は空虚空蔵菩薩だ。奥多摩新四国霊場第41番札所で、札所本尊は下記の千手観音菩薩。 














写真① 本堂
南一帯は狭山茶の主産地で、寺は加治丘陵の裾にあり陽当たりもよく、「狭山茶の記念碑」が太陽に面して建つ。裏側の墓地を登れば茶畑が眼下に展開する。

建物は新しい部類だが、歴史は古い。建仁の頃(1201~1204年)、この地を巡礼していた僧の寂蓮が、地元近くの小名田谷の井戸から出現した10センチほどの金の千手観音菩薩像を祀ったのが起源とされる。もともとは発見場所にあった井戸観音も、現在は境内にある。このあと何回も火災にあったが、宝永6年(1709年)に僧・俊誉が中興の祖となって再建された。











写真②  漢音堂


















 写真③ 椎の巨木


見どころは入母屋造りの多くのノボリで囲まれた観音堂だ。その前にそびえるくねくねした椎の大木も見落とせない。近代の優れた巨大オブジェといった風情がある。秋には椎の実拾いもできるようだ。次の見どころは、観音堂の北側の崖を支えたいくつもの自然石が美しい(写真)。












写真④ 自然石を集めた壁

四季に応じサクラ、サツキ、ツツジ、モミジ、イチョウ、ドウダンなどの花や紅葉が楽しめる。また1月16日に新久観音大祭、8月16日に観音例祭と盆踊り、12月10日前後の日曜に朝祭がある。なお裏手には「かま跡公園」があるが、これはかつて国分寺瓦を焼いた登り窯のあった跡とのこと。

2016年2月7日日曜日

豊泉寺=ふせんじ (中神691)

美しい庭園に菩薩の彫刻!!


豊泉寺(ふせんじ)は、多くの寺構えと違っている。朱のトタン葺なのが個性的である。すぐ裏庭に池を中心にした金閣寺を思わせる石を多数配した禅宗様式の庭園がある。さほど広くないが、小一時間でも座ってその静寂を味わってみたくなる。平成3年8月に市の指定文化財になっているが、地元の庭師・水村藤四郎氏により明治年間に作られたそうだ。

写真① 本堂正面


写真② 左右対の龍の彫刻



















写真③ 鐘楼―梵鐘は寛文9年(1669年)に作られたが太平洋戦争時に供出し、昭和39年に再建。直径72cm、重量450kg。




 














   曹洞宗の寺で、正式には松龍山豊泉寺。境内裏一帯が樹齢数百年の古松で、龍のような形をしているので松龍山を唱えた。本堂前には龍の石像が対で置かれている。

創建は天文元年(1532年)で、開基は小田原北条氏の家臣であった豊泉左近将監。金子郷の領主となったが、「関東争乱」で亡くなった父母と武士の冥福を祈るために建立した。しかし、寛保・延享時代に火災にあったので、古い文化財や古文書が焼失し、正確な記録がない。金子十郎家忠の館=城跡とされており、丘に囲まれた立地がそれを思わせる。

写真④ 市の指定文化財の庭園















写真⑤ 庭園を囲む西門


 庭園には写真の通り西手(北手にも)に門があり、それぞれ凝った作りである。また外側の庭地には狭山茶場碑もあれば、年代は新しいはずだが、菩薩像を彫った石柱など変わった彫り物がいくつもある。特に複数の菩薩像の美しさには目を見張る。






写真⑤ 超美人の菩薩像が多数彫られた石柱






















 

写真⑥ やはり美しい子供を抱いた菩薩像
写真⑦ これまた美しい菩薩像




















写真⑧ 可愛い子供像
写真⑨ 個性的な狛犬











 ここのご住職は彫刻や置物
が好きな様子で、以上のよう
に見ごたえのある彫り物が多
数置かれ、庭園とともに観賞
の余地がある。別途、梵鐘の
奥に「狭山茶の碑」あり。

2015年12月28日月曜日

円照寺(野田158)


池と池のコイに癒され、鎌倉幕府の滅亡伝える! 

 正式名称は「光明山正覚院 円照寺」である。真言宗智山派の寺。武蔵野観音霊場22番札所、武蔵野七福神の唯一の女性・弁財天を祀る寺でもある。武藏7党の丹党(高正寺の項に注釈)の流を継ぐ加治太郎実家は飯能から秩父地方にまたがる地域を支配し、加治氏を名乗る武士集団。実家の弟の家季が元久2年(西暦1205年)に二俣川の戦いで討ち死にしたあと、その子の家茂が父の供養のため、円照上人に開山させたのが円照寺であり、加治氏の菩提寺である。
写真① 美しい池の向うに見えるのが本堂(左)と客殿(右)

  写真② コイが多数泳ぐ池
 西武線の元加治駅から5分ほどの便利な立地であり、付近に住宅も張り付き、このため子供連れで来たり、子供だけで来て遊んでいる姿もよく見かける。というのも庭内の中心に大きな池があり、美しいコイが沢山泳ぎ、公園的な雰囲気だからだ。池の上に鉄線を傘状に張り、水鳥の着水を防ぎ、コイが伸び伸び泳ぎ回り、かつ水辺の植木の管理も充分にされているので、どこから写真を撮っても絵になる。




 











写真③ 山門と板壁・白壁

 山門とその両サイドの板塀、これに続く白壁、さらに山門前の自然石の配置なども実に味わいのあるものだ。

そして池を囲むように不動堂、本堂+客殿、鐘楼、弘法大師堂があり、池の島に弁財天堂がある。北向きの不動堂は屋根のそり返りが美しく、朱塗りの扉が映える。弁財天堂も池に浮かぶ白壁の堂でこれまた映える。

本堂には加治氏の守り本尊である行基作(奈良時代の僧?)の三尊阿弥陀如来像が祀られている。また客殿には有名人の描いた絵馬が多数飾られているようだ。

貴重品の一が、高さ137cm、幅38cm、厚さ5cmの「板碑」である。文化庁の有形文化財になっているが、七言絶句の伝えなども記されているが、問題は碑が建立された元弘三年(西暦1333年)五月十二日の銘である。この日は鎌倉幕府滅亡の日である。同時に加治家貞が北条氏に味方し、新田義貞軍に敗れた加治氏滅亡の日でもあるのだ。栄枯盛衰を教えてくれる貴重な寺である。













写真④ 不動堂

















写真⑤ 弁天堂
















写真⑦ 鐘楼




円照寺門前  元加治駅2分 裏手を入間川に下ると「入間川のイギリス海岸」

買物・ATM・トイレ
ローソンスリーエフ元加治駅南店
野田52-1
















2015年12月24日木曜日

高正寺(仏子1511)

加治丘陵にそびえる鐘楼と入間市最古の板碑

     写真③ 本殿    
    正式には「諏訪山萬齢院 高正寺」で、当初は真言宗であったが、建立から約300年後に禅宗の曹洞宗に改宗した禅宗の寺。奥多摩新四国八十ハケ所の第69番札所。武蔵野三十三観音霊場の第21番札所。本尊は虚空蔵菩薩。札所の本尊は聖観音。

 

 金子の地名につながる金子氏の初代・家範の子である「金子余市近範」によって鎌倉時代の末期に当たる健保年間 (1213~1218年)に建立されたもの。  


本ブログの扉ページに採用したくらいで、加治丘陵の北側斜面に沿って建てられ、斜めに総門、その後ろに鐘楼門が高くそびえ景観をなす。門の上に鐘楼があるので、その高さは屋根の頂上まで7.2mもなる。総門から15m近い高さだ。鐘楼の先の本堂は平面で結ばれ下から見えない。ともかく傾斜地のため、桜、梅、つつじなど庭木や建造物、墓地等が、美しいパノラマをなし、美しさに吸い込まれる。

写真② 「諏訪山」の額の総門








写真③ 高さ約7.3mの鐘楼門


    庭内には羅漢像16、巨大な鬼瓦、大きな仏の足跡の石板などが置かれ、市の文化財に指定されている板碑5基の保存小屋もある。この板碑の一つは、市内最古のもので建長2年(1250年)のもの・・・並べられた順序で写真の左から2番目のもの。鬼瓦はどこに飾られていたか知らないが、高さ150cm、横幅450cmはありそう。


 写真④ 市の文化財の石板


 写真⑤ 巨大な鬼瓦










写真⑥ 近年寄贈の仏の足跡
写真⑦ 羅漢像

    本堂の裏には大黒天を祀った招福殿というお堂もある。このほか延命地蔵、地蔵像(19体)の小屋、もあって、見ごたえがある。
 写真⑧ 地蔵小屋 左右16体








写真⑨ 延命地蔵








 「左馬助」さんという方のブログによれば、「金子親範の館があった場所ではないか」と推定している。背後が山であり、手前に堀を思わせる流があり、砦を構えるに値する地形からの判断のようである。その後に菩提寺が建立されたとしても不思議ではない。


金子氏と武蔵七党について  Wikipediaより
 平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて、武蔵国を中心に
下野、上野、相模にも勢力を拡大した武士団の総称を「武蔵七
党」という。武蔵国は台地が広がり、牧畜に都合がよく、帰化
人が馬飼部として多くの牧場を設け、その管理者のなかから多くの中小武士団が生れたとされる。
ところで武蔵七党は、実際には次のように九党とされる。
横山党、猪俣党、野与党、村山党、児玉党、西党、丹党、綴党、私市党
 このうちの村山党から分かれたのが金子氏である。村山党は 武蔵国多摩郡村山郷、現在の入間川付近に勢力のあった一族で、野与党と同族。先祖は桓武平氏の平基宗(元宗と同一人物とされる)で、子供の基永が野与党となり、同・頼任が村山党となる。そして、頼任の子である頼家の子(頼任の孫)の1人である家範が金子氏を名乗り、その2代め近範が高正寺建立。  
 なお武藏七党の丹党から生まれたのが加治氏で、円照寺建立。





高正寺から3分    仏子駅から8分

買物・ATM・トイレ
セブンイレブン入間仏子西店
仏子354-1


高正寺から2分   仏子駅から6分ほど

日本そば・他飲食
さんぽ径・・・こだわりそばの店
仏子397-5

















































 
 





















庭内には羅漢像16、巨大な鬼瓦、大きな仏の足跡の石板などが置かれ、市の文化財に指定されている板碑5基の保存小屋もある。この板碑の一つは、市内最古のもので建長2年(1250年)のもの・・・並べられた順序で写真の左から2番目のもの。鬼瓦はどこに飾られていたか知らないが、高さ150cm、横幅450cmはありそうだ。

 本堂の裏には大黒天を祀った招福殿というお堂もある。このほか延命地蔵、地蔵像(19体)の小屋、もあって、見ごたえがある。










金子氏と武蔵七党について  Wikipediaより
 平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて、武蔵国を中心に
下野、上野、相模にも勢力を拡大した武士団の総称を「武蔵七
党」という。武蔵国は台地が広がり、牧畜に都合がよく、帰化
人が馬飼部として多くの牧場を設け、その管理者のなかから多くの中小武士団が生れたとされる。
ところで武蔵七党は、実際には次のように九党とされる。
横山党、猪俣党、野与党、村山党、児玉党、西党、丹党、綴党、
私市党
 このうちの村山党から分かれたのが金子氏である。村山党は
武蔵国多摩郡村山郷、現在の入間川付近に勢力のあった一族で、
野与党と同族。先祖は桓武平氏の平基宗(元宗と同一人物とされる)で、子供の基永が野与党となり、同・頼任が村山党となる。そして、頼任の子である頼家の子(頼任の孫)の1人である家範が金子氏を名乗り、その2代め近範が高正寺建立。
 なお武藏七党の丹党から生まれたのが加治氏で、円照寺建立。