加治丘陵にそびえる鐘楼と入間市最古の板碑
写真③ 本殿
正式には「諏訪山萬齢院 高正寺」で、当初は真言宗であったが、建立から約300年後に禅宗の曹洞宗に改宗した禅宗の寺。奥多摩新四国八十ハケ所の第69番札所。武蔵野三十三観音霊場の第21番札所。本尊は虚空蔵菩薩。札所の本尊は聖観音。写真③ 本殿
金子の地名につながる金子氏の初代・家範の子である「金子余市近範」によって鎌倉時代の末期に当たる健保年間 (1213~1218年)に建立されたもの。
本ブログの扉ページに採用したくらいで、加治丘陵の北側斜面に沿って建てられ、斜めに総門、その後ろに鐘楼門が高くそびえ景観をなす。門の上に鐘楼があるので、その高さは屋根の頂上まで7.2mもなる。総門から15m近い高さだ。鐘楼の先の本堂は平面で結ばれ下から見えない。ともかく傾斜地のため、桜、梅、つつじなど庭木や建造物、墓地等が、美しいパノラマをなし、美しさに吸い込まれる。
写真② 「諏訪山」の額の総門
写真③ 高さ約7.3mの鐘楼門
庭内には羅漢像16、巨大な鬼瓦、大きな仏の足跡の石板などが置かれ、市の文化財に指定されている板碑5基の保存小屋もある。この板碑の一つは、市内最古のもので建長2年(1250年)のもの・・・並べられた順序で写真の左から2番目のもの。鬼瓦はどこに飾られていたか知らないが、高さ150cm、横幅450cmはありそう。
写真④ 市の文化財の石板
写真⑥ 近年寄贈の仏の足跡
写真⑦ 羅漢像
本堂の裏には大黒天を祀った招福殿というお堂もある。このほか延命地蔵、地蔵像(19体)の小屋、もあって、見ごたえがある。
写真⑨ 延命地蔵
「左馬助」さんという方のブログによれば、「金子親範の館があった場所ではないか」と推定している。背後が山であり、手前に堀を思わせる流があり、砦を構えるに値する地形からの判断のようである。その後に菩提寺が建立されたとしても不思議ではない。
金子氏と武蔵七党について Wikipediaより
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平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて、武蔵国を中心に
下野、上野、相模にも勢力を拡大した武士団の総称を「武蔵七
党」という。武蔵国は台地が広がり、牧畜に都合がよく、帰化
人が馬飼部として多くの牧場を設け、その管理者のなかから多くの中小武士団が生れたとされる。
ところで武蔵七党は、実際には次のように九党とされる。
横山党、猪俣党、野与党、村山党、児玉党、西党、丹党、綴党、私市党
このうちの村山党から分かれたのが金子氏である。村山党は 武蔵国多摩郡村山郷、現在の入間川付近に勢力のあった一族で、野与党と同族。先祖は桓武平氏の平基宗(元宗と同一人物とされる)で、子供の基永が野与党となり、同・頼任が村山党となる。そして、頼任の子である頼家の子(頼任の孫)の1人である家範が金子氏を名乗り、その2代め近範が高正寺建立。
なお武藏七党の丹党から生まれたのが加治氏で、円照寺建立。
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高正寺から3分 仏子駅から8分
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庭内には羅漢像16、巨大な鬼瓦、大きな仏の足跡の石板などが置かれ、市の文化財に指定されている板碑5基の保存小屋もある。この板碑の一つは、市内最古のもので建長2年(1250年)のもの・・・並べられた順序で写真の左から2番目のもの。鬼瓦はどこに飾られていたか知らないが、高さ150cm、横幅450cmはありそうだ。
本堂の裏には大黒天を祀った招福殿というお堂もある。このほか延命地蔵、地蔵像(19体)の小屋、もあって、見ごたえがある。
金子氏と武蔵七党について Wikipediaより
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平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて、武蔵国を中心に
下野、上野、相模にも勢力を拡大した武士団の総称を「武蔵七
党」という。武蔵国は台地が広がり、牧畜に都合がよく、帰化
人が馬飼部として多くの牧場を設け、その管理者のなかから多くの中小武士団が生れたとされる。
ところで武蔵七党は、実際には次のように九党とされる。
横山党、猪俣党、野与党、村山党、児玉党、西党、丹党、綴党、
私市党
このうちの村山党から分かれたのが金子氏である。村山党は
武蔵国多摩郡村山郷、現在の入間川付近に勢力のあった一族で、
野与党と同族。先祖は桓武平氏の平基宗(元宗と同一人物とされる)で、子供の基永が野与党となり、同・頼任が村山党となる。そして、頼任の子である頼家の子(頼任の孫)の1人である家範が金子氏を名乗り、その2代め近範が高正寺建立。
なお武藏七党の丹党から生まれたのが加治氏で、円照寺建立。
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