個人のお宅に存在するので、住所は明確にしません。
場所が分かっても、さりげなく、騒がず見てください。
白壁の土蔵はいつごろの時代から作られたのか。戦国時代になり鉄砲が使われるようになり、この防御のため城に厚さ30cmの土壁、そしてシックイ(漆喰)を表面に塗る白壁がまず登場し、江戸時代後期になり多くの大火も経験し、豪農や豪商を中心に火災や盗難に強い、白壁の土蔵作りが広がって行ったように思う。農村部でも庄やと云われる家に白壁の土蔵が多く見られる。港町や河川交通の要衝にも、廻船問屋の店舗と倉庫を兼ねた白壁の土蔵がいまも多く残っている。いづれにしても、豊かさのシンボルでもあった(守るべき財産が多い)。
実際「日本の蔵と収納」についての研究者の解説を見ても、倉・庫・蔵はいずれも「くら」だが、倉は食の字と口が合体したもので、元来は穀物を収納する場所、庫は兵車を収納する場所、そして蔵は「収蔵する内容よりも行為を指し、資産を貯蔵する場所」として社会・経済的地位を象徴するもの」とある。
仏子地区にも野田に15基ほど、仏子に5基ほど白壁の蔵が残っている。野田の場合、特に中橋を渡って100mほどいった道路の左右に多い。仏子地区には製糸の手織り工場3軒、機械織り工場12軒、染色工場16軒が林立した時代があり、「就職先にこまらなかった」とされ、半農・半機織の多い豊かな地区だったことは間違いない。この繁栄に寄与したのが元加治出身の故・平岡徳次郎氏(別記)である。
写真(下)この蔵は東と西の家紋が異なっている・・・こうしたことがよくあるのか
は未調査。
写真 この蔵の窓は、天気の良い日は必ず開いて通風に努めている様子。
2.野田西部の蔵
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写真(下) パステルカラーの現代建築と白はよく調和する。
写真(下) 同じ蔵の東面と西面。西側はツタが巻き付き風情あり。
写真(下) 今も蔵を常時利用しているようで、蔵の周りに活気がある。3代めに当たる当主のはなしでは、「この蔵は地域で最も新しく建てられたそうだ。だから大っきい」。建て方も他と異なる・・・屋根の下に梁があり、空気が出入りする隙間もあるようだ。母屋から離れ、火災が起きても炎で類焼することがないとの判断で、換気を優先したのでは。1階、2階の各扉は現在は常時開けっ放しである。1階扉は片方だけで300kgもありそうで、「重いため開け閉めをしていたら壊れてしまう」との話。また「現在は肥料や農薬などを保管し、貴重ひんなどは入っていない」そうだ。 庭に社(やしろ)があり、7トン、5トン、3トンといった巨石も置かれている。蔵も豊かさの象徴として明治2年生まれの2代めが、明治末期に建てたのではないか。
3.仏子エリアの蔵
写真(下) 庭側(北側)と西武線の線路側(南側)からの撮影だ。
写真 (下)蔵 通常の2倍の広さの蔵で、入り口も二つある。
写真 (下)蔵、板塀、煙出し楼の3拍子揃ったお宅の蔵である。
平岡徳次郎の湖月会-その高級織物が全国制覇!
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明治から大正にかけ、湖月会という組織を作り、高級織物の生産―集荷―販売の一貫体系にまとめ、「湖月」ブランドで全国を席巻したのが、元加治出身の平岡徳次郎である。
平岡氏は仏子で平岡商店(屋号「八」)を創業したが、織物の中心所沢に明治38年に店を出し、同業組合のまとめ役もしつつ、大正6年に独自に湖月会組織を作り、主要百貨店とも取引し、全国に名をとどろかした。このため飯能ほかの技術基盤がある有力な機織業者を組織し、製品企画を立て、織った製品を全量買取り、一元販売する・・・といった先進商法を採用した。
当時の有力婦人雑誌の「婦女界」にも毎月広告を出した。
以上から元加治、野田が大変豊かな地区であったことは間違いない。大正11年には57才で武蔵織物同業組合第3代の組合長に就任。
(平岡氏は慶応元年生、昭和2年に62才で没)
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