蔵とともに明治・大正に至る現代史の足跡を残す建造物が民家の煙出し楼、瓦屋根の門、板塀などである。これらは仏子駅北口からせいぜい200m以内に集中している。煙出し楼に限れば、幹線道路の富岡入間線に沿い、西に1.2km行く間に、現在4件が残るのみである。静かに見て回ってほしいが、1~2時間ほどの散策ですむ。
1.煙出し楼
煙出し楼は、囲炉裏の煙を逃がす屋根上に付き出した楼である。普通、瓦屋根の上に設けられるものと思ってきたが、同じ埼玉の三芳町が保存している旧・池上家の茅葺(カヤブキ)屋根の住宅でも(今から140年ほど前の建築とされる)、また他所の茅葺屋根でも煙出し楼が見られる。楼がないまでも、頂上の△部の端に煙抜き窓を付けている例にぶつかる。「煙で屋根材をいぶし、茅に虫が発生しないようにし、茅葺屋根の長期維持を可能にしてきた」とされるが、余分な煙を屋根全体でなく楼や小窓から逃がす工夫もされていたことを知る必要がある。
瓦屋根が寺院やお城だけでなく、一般住宅にも普及するようになったのは、延宝2年(1674年)に、滋賀県の西村半兵衛という人が「平瓦と丸瓦を統一した、軽くて施工コストも安い桟瓦(さんかわら)を開発してから」とされる。そして時代が進み、屋上に瓦屋根の煙出しが採用されるようになるのは江戸時代の末期から明治初期の1800年以降のようである・・・各地の古民家の事例から判断。蔵と同様に富の象徴という側面は否めず、豪農、豪商、旅籠などの存在する地区に多い・・・滋賀、京都、奈良、兵庫など。
写真①② 仏子中心部にある3層に見える
堂々たる煙出し楼ー例1
写真③ 仏子中心部にある大型家屋の煙出し楼ー例2・・・平成30年の暮れに家屋全体取り壊されている。残念なことだが維持を強要することは無理。
囲炉裏やカマドのある土間の上方の屋根に約90cm角の小さな楼(屋根面積半坪ほど)を作ったケースが多い。だが仏子の4基は。屋根全体の1/3~1/2ほどを占め、長さ450cm(2.5間)以上のものもある。群馬県の養蚕先進農家のものの影響を受けて、大きな楼を作ったように思え、養蚕との関わりもあったように思う(別注参照)。現在は煙出しの窓部分は無用の長物で、板でふさがれている。
写真④⑤ 仏子中部にあるものー瓦を補修したのか白い漆喰も目に付くー例➂
先進養蚕農家「田島弥平」邸の例
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世界文化遺産に正式登録された「富岡製糸場と絹産業遺跡群」にも、先進的な養蚕農家「田島弥平」の蚕飼育の施設(伊勢崎市)に煙出し楼が含まれている(1863年設置)。このばあいは2階全体が蚕室で、そのうえ全体に長さ25m、高さ2m、幅1.8mの煙出し楼が乗り、温度調節を行った。
これまでの蚕を温めて飼う方法だったが、田島は温度を調整し涼しくして飼う「清涼育」を確立し、繭の生産力向上に貢献。革新技術の一つが、広い間口の煙出し楼である。
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3.近代家屋に煙出し楼のデザイン採用例
写真⑨⑩ー2階の明かり取りに利用した感じの2例
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