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2016年3月19日土曜日

49段の「傘屋の坂」ー円照寺と高正寺結ぶ!


 昔は道路わきの小川に沢カニが生息

 195号線=富岡入間線に面した仏子地区に「円照寺入口」というバス停がある。この近くに「自転車乗り入れ禁止」の立て看板があり、奥を除くと急坂の石の階段がある。その段数は49段、一番下に疎水をまたぐコンクリートの板がある。これまで入れると50段である。下から登る場合は胸突き八丁のきつい坂であり四苦八苦する。とすると四十九段と見たほうが場の雰囲気に合っている。
写真① 傘屋の坂はいまは階段(下から上を仰ぐ)



写真② 傘屋の坂(上から下を臨む)

 もともとは、段丘下の円照寺と段丘上の高正寺を巡礼する際の近道だったものと思う。そして現代になり、滑らないよう階段状に直したもののようである。正式には「傘屋の坂」と言う、この近くに傘屋の屋号の家があったので名付けられた坂道。竹やアオキ、ヤマツバキなどが茂り、その中を小川が走り、沢カニが住んでいたという。いまは小川を暗渠に代えたため、コンクリートの広い階段がややカーブしながら伸び、石組の高い壁が左右を囲んでいつ。



 「なんの変哲もない」とお叱りを受けるかもしれないが、巡礼者や村人が汗を流しながら登った道だと思うと捨ておけない。

2016年2月8日月曜日

「あんず幼稚園」に地下鉄電車がある! (仏子1089)


 園児の夢を乗せる場に

地下鉄・丸の内線をかつて走っていた400形電車440号が、仏子駅東北200mほどの「あんず幼稚園」に保存されている。鉄道ファンでない無知な当方は、初め西武線の電車かと思っていた。「赤い電車」と愛称で呼ばれ、車内は現在タタミ敷になっているようだ。いつまでも、園児の夢を乗せる場であって欲しい。
写真① 園内の400形電車440号 

 電車に親しむと、時刻表片手に小学校5~6年でも四国や金沢まで1人旅も出来るようになるもの。旅になれると今度は大人になりロシア、中国、台湾、マレーシア、インドネシア、オーストラリアと世界を雄飛する職業にも進んで飛び込める・・・これが45歳の我が息子の姿である=某飲食店チェーン現地法人のジェネラルマネージャー。

丸の内線は池袋―荻窪間を走り、昭和29年1月20日に開通した。当初は300形、後に400形、500形と変化したようだ。横幅はいずれも280cmのはずで、写真②は3形式に共通したプラモデルである。幅当方は49年間、終点の荻窪に住んでいたので、さんざん400形にも乗ったことになり、展示されている車両にも1度は乗ったかもしれない・・・懐かしさがこみあげてくる。

300形は外国のウエスチングハウス社と三菱電機が技術提携して造ったようだが、器用な日本のことで、400形は準国産に近いはず。

なお、車両は西武線を走ってはこばれたのではなく、夜間トラックを利用して運ばれたようである。トラックの夜間搬送が最も手軽でローコストとのこと。



2015年12月24日木曜日

仏子・野田地区ー門・板塀他・朱の屋根

近代史の遺品を大切に!  <地方創生>
1.瓦葺の門      
 お寺のような、威風堂々とした瓦ぶきの門は2基ある。門そのものと、袖塀は木製だが、袖塀の上にも狭い瓦屋根が乗り、くぐり戸があることや、その位置も共通している。同じころ設置されたはずである。


写真①② 瓦葺の門ー2点




























2.朱トタンの門と屋根
 写真③ 赤いトタン屋根の門も、堂々としていることに変わりない。脇につながる板塀の色との調和も良い。




















写真④ 仏子には写真の家の他にも、赤いトタン屋根の家が駅近くに2軒ある。瓦葺に比し維持が大変だが、ぜひ守って欲しいもの・・・最近改装されてしまった。





















写真⑤⑥ 文化創造アトリエ「アミーゴ」の屋根や金子側にある豊泉寺(ふせんじ)の屋根も朱のトタンが使われている















トタン屋根の効用と今昔
 
 1.昔の茅葺屋根に比べ、トタンなら雨に対応しやすい。
2.コストも安くついた。
3.つぎたしつぎたしで、屋根の形にも自由に対応できた。
4.塗装や部分的に修理すれば楽に50年でも持つ。
このため.戦後でも平屋建て家屋が多かった時代は、建坪がワイドのため、居間を取囲む廊下や縁側の上部、また窓の上部につける屋根はトタン葺が普通だった。軒下に直に雨が当たらないよう、樋(とい)を使えば、遠くに雨を流すこともできたからだ。
近代になり2階建て家屋が増え、建坪が減り、屋根の面積も減り、少々高いが瓦やスレート屋根が急増。屋根も急角度になり、樋を使えば自由にコントロールでき、トタン屋根は急速に消えた・・・と見てよい。それだけに朱のトタン屋根は貴重な存在で、映えもする。

3.板塀・白壁・レンガ塀
 板塀はどこも共通して屋根があり、内側から斜めの柱で補強してある。また土台の石はコンクリートだったり大谷石だったりだが、土台の石と土台に接する横木の接合は切り込みによって頑丈に接続されている。だからこそ台風ほかの風雪にも耐えてきたのだ。板塀は神社にもつきものである。
写真⑤ 写真①と連動した黒塗りの板塀だ-これは珍しい

 















写真⑥ 写真③につながる板塀である












写真⑦  現在は修理がされているが、黒々とした板塀に風との戦いの美しさがある。・・この塀はプラスチック素材の板塀に変わっている。
写真⑧ 板塀は内側から斜めの支えをし。風雪に耐える強さを発揮。














写真⑨⑩ 板壁の土台はコンクリートもあるが、多くは大谷石が使われ、これに角材の土台を乗せ、石と木材を切り込みでしっかり組み合わせている。

















写真⑪  白壁は寺院建築の一部かもしれない。円照寺、長徳寺(共に野田)など長い白壁に囲まれている。写真は長徳寺の白壁。



















写真⑪ 石組の上にレンガを積んだ塀も極めて珍しい。塀の中には小さな神社が祀られていた。元加治駅の南方向。











仏子・野田地区ー白壁の土蔵

    半農半織物が豊かさ→蔵の林立 <地方創生>
個人のお宅に存在するので、住所は明確にしません。
場所が分かっても、さりげなく、騒がず見てください。


   白壁の土蔵はいつごろの時代から作られたのか。戦国時代になり鉄砲が使われるようになり、この防御のため城に厚さ30cmの土壁、そしてシックイ(漆喰)を表面に塗る白壁がまず登場し、江戸時代後期になり多くの大火も経験し、豪農や豪商を中心に火災や盗難に強い、白壁の土蔵作りが広がって行ったように思う。農村部でも庄やと云われる家に白壁の土蔵が多く見られる。港町や河川交通の要衝にも、廻船問屋の店舗と倉庫を兼ねた白壁の土蔵がいまも多く残っている。いづれにしても、豊かさのシンボルでもあった(守るべき財産が多い)。


 実際「日本の蔵と収納」についての研究者の解説を見ても、倉・庫・蔵はいずれも「くら」だが、倉は食の字と口が合体したもので、元来は穀物を収納する場所、庫は兵車を収納する場所、そして蔵は「収蔵する内容よりも行為を指し、資産を貯蔵する場所」として社会・経済的地位を象徴するもの」とある。 


 仏子地区にも野田に15基ほど、仏子に5基ほど白壁の蔵が残っている。野田の場合、特に中橋を渡って100mほどいった道路の左右に多い。仏子地区には製糸の手織り工場3軒、機械織り工場12軒、染色工場16軒が林立した時代があり、「就職先にこまらなかった」とされ、半農・半機織の多い豊かな地区だったことは間違いない。この繁栄に寄与したのが元加治出身の故・平岡徳次郎氏(別記)である。


1.野田東部の蔵 
   写真(下) 狭山市寄りの蔵。所有者の話では「江戸時代に建造。道路工事で100m?ほど移設したとのこと。白壁の裾の方が一部崩れており、確かに古そうだ。





















写真(下)この蔵は東と西の家紋が異なっている・・・こうしたことがよくあるのか
は未調査。


写真 この蔵の窓は、天気の良い日は必ず開いて通風に努めている様子。















 






2.野田西部の蔵

写真(下) パステルカラーの現代建築と白はよく調和する。














写真(下) 同じ蔵の東面と西面。西側はツタが巻き付き風情あり。                  
    


写真(下) 蔵のある家には必ずのように柿木もある。赤と白とのコントラストが映える。


























写真(下) 今も蔵を常時利用しているようで、蔵の周りに活気がある。3代めに当たる当主のはなしでは、「この蔵は地域で最も新しく建てられたそうだ。だから大っきい」。建て方も他と異なる・・・屋根の下に梁があり、空気が出入りする隙間もあるようだ。母屋から離れ、火災が起きても炎で類焼することがないとの判断で、換気を優先したのでは。1階、2階の各扉は現在は常時開けっ放しである。1階扉は片方だけで300kgもありそうで、「重いため開け閉めをしていたら壊れてしまう」との話。また「現在は肥料や農薬などを保管し、貴重ひんなどは入っていない」そうだ。 庭に社(やしろ)があり、7トン、5トン、3トンといった巨石も置かれている。蔵も豊かさの象徴として明治2年生まれの2代めが、明治末期に建てたのではないか。 





















3.仏子エリアの蔵
写真(下) 庭側(北側)と西武線の線路側(南側)からの撮影だ。 















写真 (下)蔵 通常の2倍の広さの蔵で、入り口も二つある。




















写真 (下)蔵、板塀、煙出し楼の3拍子揃ったお宅の蔵である。




平岡徳次郎の湖月会-その高級織物が全国制覇!
 明治から大正にかけ、湖月会という組織を作り、高級織物の生産―集荷―販売の一貫体系にまとめ、「湖月」ブランドで全国を席巻したのが、元加治出身の平岡徳次郎である。
 平岡氏は仏子で平岡商店(屋号「八」)を創業したが、織物の中心所沢に明治38年に店を出し、同業組合のまとめ役もしつつ、大正6年に独自に湖月会組織を作り、主要百貨店とも取引し、全国に名をとどろかした。このため飯能ほかの技術基盤がある有力な機織業者を組織し、製品企画を立て、織った製品を全量買取り、一元販売する・・・といった先進商法を採用した。
 当時の有力婦人雑誌の「婦女界」にも毎月広告を出した。
以上から元加治、野田が大変豊かな地区であったことは間違いない。大正11年には57才で武蔵織物同業組合第3代の組合長に就任。
(平岡氏は慶応元年生、昭和2年に62才で没)

























2015年12月20日日曜日

仏子の貴重な遺産-煙出し楼


煙出し楼や門・板塀他は仏子駅近くに!

 蔵とともに明治・大正に至る現代史の足跡を残す建造物が民家の煙出し楼、瓦屋根の門、板塀などである。これらは仏子駅北口からせいぜい200m以内に集中している。煙出し楼に限れば、幹線道路の富岡入間線に沿い、西に1.2km行く間に、現在4件が残るのみである。静かに見て回ってほしいが、1~2時間ほどの散策ですむ。

1.煙出し楼
 煙出し楼は、囲炉裏の煙を逃がす屋根上に付き出した楼である。普通、瓦屋根の上に設けられるものと思ってきたが、同じ埼玉の三芳町が保存している旧・池上家の茅葺(カヤブキ)屋根の住宅でも(今から140年ほど前の建築とされる)、また他所の茅葺屋根でも煙出し楼が見られる。楼がないまでも、頂上の△部の端に煙抜き窓を付けている例にぶつかる。「煙で屋根材をいぶし、茅に虫が発生しないようにし、茅葺屋根の長期維持を可能にしてきた」とされるが、余分な煙を屋根全体でなく楼や小窓から逃がす工夫もされていたことを知る必要がある。

 瓦屋根が寺院やお城だけでなく、一般住宅にも普及するようになったのは、延宝2年(1674年)に、滋賀県の西村半兵衛という人が「平瓦と丸瓦を統一した、軽くて施工コストも安い桟瓦(さんかわら)を開発してから」とされる。そして時代が進み、屋上に瓦屋根の煙出しが採用されるようになるのは江戸時代の末期から明治初期の1800年以降のようである・・・各地の古民家の事例から判断。蔵と同様に富の象徴という側面は否めず、豪農、豪商、旅籠などの存在する地区に多い・・・滋賀、京都、奈良、兵庫など。

写真①②  仏子中心部にある3層に見える
  堂々たる煙出し楼ー例1












 












写真③  仏子中心部にある大型家屋の煙出し楼ー例2・・・平成30年の暮れに家屋全体取り壊されている。残念なことだが維持を強要することは無理。

 










  囲炉裏やカマドのある土間の上方の屋根に約90cm角の小さな楼(屋根面積半坪ほど)を作ったケースが多い。だが仏子の4基は。屋根全体の1/3~1/2ほどを占め、長さ450cm(2.5間)以上のものもある。群馬県の養蚕先進農家のものの影響を受けて、大きな楼を作ったように思え、養蚕との関わりもあったように思う(別注参照)。現在は煙出しの窓部分は無用の長物で、板でふさがれている。

写真④⑤ 仏子中部にあるものー瓦を補修したのか白い漆喰も目に付くー例➂

























写真⑥ 仏子西部。おしゃれにもハトが常時2羽、楼上にとまっている。なぜか?ハトは銅像なのだ。
写真⑦ 仏子中心部。庭内にある神社の煙出し楼と思うー異質な例















先進養蚕農家「田島弥平」邸の例
世界文化遺産に正式登録された「富岡製糸場と絹産業遺跡群」にも、先進的な養蚕農家「田島弥平」の蚕飼育の施設(伊勢崎市)に煙出し楼が含まれている(1863年設置)。このばあいは2階全体が蚕室で、そのうえ全体に長さ25m、高さ2m、幅1.8mの煙出し楼が乗り、温度調節を行った。
これまでの蚕を温めて飼う方法だったが、田島は温度を調整し涼しくして飼う「清涼育」を確立し、繭の生産力向上に貢献。革新技術の一つが、広い間口の煙出し楼である。

2.入間市扇町屋の煙出し楼
写真⑧ー街道に面した旅籠だったのではないか?


















3.近代家屋に煙出し楼のデザイン採用例
写真⑨⑩ー2階の明かり取りに利用した感じの2例