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2022年12月28日水曜日

公園を多様性に配慮した施設に!

  

   長野県で元・大學教授による執拗な「うるさい」という苦情で、公園が閉鎖された。この顛末は末尾に紹介するが、人間に限らず動物はコミュニケーションや自己表現のため声を発するもの。広い空間であれば、開放感や伝達のため声は自然と高くなる。自身が子供だった時代を考えれば、「声がうるさい」と言えないはず。声は音の1つだが、道路や鉄道、學校、音を出す工場の脇に居を構えた人は絶えず騒音になやまされていて逃げ場がない。太古の社会と異なり、文明社会ではお互い少々の音にたいして我慢を強いられるものだ・・・静寂をもとめられる睡眠時間は別である。 

 少子高齢化のため、住宅地最寄りの公園は、子供の声も聞こえないくらい、利用者が少ない場合がむしろ多い。利用者が少ないと、犯罪も増えやすく、安心して子供だけ公園に送り出せなくなる。このため、公園を人の集まりやすく、にぎやかな場にしていく努力が求められているのではないか。 

公園には多様な目的がある・・・①「子供さんの遊び場」と限定した考えは、むしろ辞めるべきで、②若いママさんの公園デビュウの場、③若者のデートの場、④勤労世代が食事をしたり一休みする場、⑤高齢者が健康のため散歩や体操したり、対話を交わす場、さらには⑥世代を越え緑の環境を享受する場、⑦災害時の避難の場・・・といった側面も含め、「全世代利用型」を目標とし、利用者をいかに増やすかを考えるべきである。そして、一日様々な人が出入りし、たくさんの目が働ければ、それだけ子どもさんも若いママさんたちも安心して集える。 

写真①遊具もモダンになっていますが、モダンさより全体の機能強化を!










写真②⓷ 緑町中央公園の花のボランティア募集の花壇。懇談できる日陰の小屋

 新所沢の緑町中央公園は広いタイプの公園だが、常時「花壇の手入をするボランティアの募集」がされ、奥行3.6×100mほどの花壇があり公募したボランチアが管理に当たっている。花壇の近くの日当たりには3×3mの木の腰掛台があり、さらに木陰に6~8人が座れる木のテーブルと椅子もある。そして花壇の管理に当たるボランティアの人を中心、中・高齢者が4~5人以上も寄り雑談しいる。10m四方はあると思われるコンクリートのミニ広場では15~20人もの人が太極拳の練習もしている。インコや烏骨鶏が変われた鳥小屋もあり、花壇だけでなく鳥を見に来る人もいる。これらのゾーンと隣接し、白の鉄製の柵で囲まれた砂場があり、このほかブランコ、滑り台など遊具がいくつかある。別途、コンサートも可能な広場もある。幼児~老人まで全世代が集える要素を持っている。 

どこの公園にも4人掛けほどのベンチはあるが、横並びでは3~8人と言った対話はできない。緑町中央公園のように、真ん中に机を挟み対話のしやすいベンチの配置もぜひ取り入れるべきでしょう。

同じ所沢で1,650㎡ほどの小公園では、1段上がったところに砂場、ブランコ、滑り台などの幼児用遊具が集められ、一段下がった80%ほどのところが広場になり、子供さんが柔らかいボールを投げ、これをママさんが打つ・・・という光景も。また片隅にあるバスケットのゴールに、一人黙々と投げ入れる中学生の練習風景も見てきた。幼児や小学生が遊ぶ公園で、硬いボールの野球をしたり、ボスケットの試合をしたりするのは禁止すべきだが、あれもこれもダメ・・・の禁止規定の多い公園にしてはいけない。バスケットのボール入れだけなら25㎡もあれば練習はできるし、1ホールだけのゲートボールの練習場も設置できる。これから流行るだろうボッチャなどの球技も狭い場所で可能なはず。これらをすれば公園の利用層は増える。 

 













写真④⑤ バスケットの練習用のゴール・・・1人で楽しめる。団地の公園でカードゲームに興じる中学生をみたことも。

高齢化社会という背景も考え、公園の全世代利用を促すことがたいせつなのではないか。私は分譲団地の公園ゾーンに接した棟に住んでいる。朝草むしりに出ると、遊具コーナーと離れたコンクリートの広場では、毎日ある高齢者が1人黙々と体操をしている。平日の放課後や土日には小・中学生が5人、10人と来てコンクリートの上でカード遊びをしたりスケボーもする。10mほどの四角に囲まれた小砂利のエリアがあり、ここを舞台にドッジボールを10人以上で楽しんでいることもある。砂利が枠外にとびちるが、これを枠内に箒で戻すのが私のささやかな仕事でもある。そして「うるさい」と感じたことは1回もない。 

公園の利用法については、「あれもこれもだめ」ではなく、「こんなことはできないか」と逆に考え、多くのひとに喜ばれる工夫をすることが大切だと思う。


長野県で起きた公園閉鎖の顛末(公表記事)

長野駅から車で10分ほどの住宅地に、問題の青木島遊園地はある。青木島小学校、青木島保育園、青木島児童センターに囲まれた場所にある青木島遊園地は2004年に地区住民の要望を受け、農地だった場所を公園として整備した。長野市の公園緑地課が管轄となって公園を整備し、隣接する青木島児童センターや地域ボランティアによって雑草駆除などの管理を行なってきた。青木島児童センターの責任者はこう話す。 「児童センターは青木島遊園地ができたのと同時期に設立されました。保護者が就労していて自宅に不在の小学12年生を下校時間から保護者の仕事が終わるまでここで預かっています」  ところが公園ができてからしばらくして、公園付近に自宅があるひとりの男性から児童センターに苦情が入る。国立大学の教授(当時)を務めていたこの男性は、 「子供を迎えに来る保護者の車のエンジン音がうるさい」と主張したという。児童センターの関係者は言う。 「児童センターはこれを受け、駐車場に面した児童センターのガラスに、エンジンをかけっぱなしにしないよう張り紙をするなど対応しました。それでも『車のエンジン音がうるさい』という男性からの苦情の声は、変わらず児童センターや市の公園緑地課に寄せられました。市の公園緑地課はさらにそれを受けて、男性の自宅前にあった公園の入口を移動させ、自宅に近い場所で遊ばせないように植樹して子供の遊び場を限定、雲梯の位置も男性宅から遠い位置へと移動させるなど、さまざまな配慮をしました」  教授だった男性は昨年3月に国立大学を退職し、名誉教授となった。すると程なくして、今度は青木島児童センターに「子供の声がうるさい」と男性から注意があったという。児童センターの責任者が説明する。 「遊ばせ方を考えなさいという話でした。小学校低学年に、静かに遊ばせるというのは困難ですので、現在は屋内で遊ばせるようにし、外での遊びは小学校のグラウンドを放課後に借りるという形で対応することを考えています」  公園に隣接する住宅に住み、男性とも面識のある住民は困惑気味にこう話す。 「子供の声はしますが、それは夕方まででそれほど気になりません。男性は教授だからといって偉そうにするわけでもないし、地域の集まりにもちゃんと参加していました。酒席でも普通に話す人で、特に神経質な性格という感じもありません。威圧されるような感じもない。ただ教育者という立場なのに、なぜ子供に対して寛容な目で見られないのでしょうか……」   (この閉鎖された公園については、再開を願う署名運動もやられ、多数の署名が集まったようだ)




2022年12月9日金曜日

入間市「 野田」については250年前の地図―137世帯

                 

写真:わずかに黄色く見えるのが田んぼ。上方の中央が、最も広い谷田の泉を水源とした

 昔の水田部。水田には無数の上田、中田、下田、下下田の文字が書かれている。


  野田という名は、南北朝時代(1336~1392年)からあったそうで、武蔵七党の円党に属する野田氏が開拓した土地だから、その名がある。 

仏子エリア全体の古地図にはまだ接していないが、入間川北側の野田については、明和4年11月(1767年・・・今から255年前)に記された「野田村絵図」という古地図が西武図書館に保存されている。ほぼ、今の野田のエリアに近いと思われ、谷田の泉の南西部に楕円形の、そして円照寺の北部にはおしゃもじ型や、東西に延びる細長い田んぼが見られる。全体の面積の20%以上は田んぼだったのでは。 

田んぼには必ず上田、中田、下田、下下田と4区分の字が無数に記されている。これは、田の年貢取り立てのための生産性(収量)の差を現わすようで、この地図は、地元領主が年貢取り立てのために描かしたものと思われる。畑にも上畑、中畑、下畑の文字が書かれている。

当時の人家も1戸ごとにマーク的に描かれており、私の計算だと137戸になる。現在の大字・野田は2022年11月現在4,203世帯であり、30倍も戸数がふえたことになり、明治以降~高度成長期に急速に住宅地として拡大してきたと言える。 

住宅地の中の「おしゃもじ田」のところも、2~3年前はかつて田があったことを思わせる底地だった。円照寺以北の水田は、入間川から水を引くのでなく、谷田の泉近くの田のように、段丘の湧き水に支えられていたはずである。谷田の泉=「下池」の西方向にもう一つ「中池」というため池もあり、田の水源になっていたため、谷田の水田といわれるものが、水田としては最も広く描かれている。他の水田は飯能側から流れこんだ川沿いに細長く東西に延びる田がほとんどで狭い。。


谷田の泉と周辺.







写真:上は「下池」と言われる

谷田の泉を支えるため池

中は「谷田の泉」の説明板・・・詳しく非常に参考になる。

下は昔、泉につながる水田だった低地…驚き!水田が現存した!!

      小学生さん等のための実験田か?刈り残しのイネ株ー野田最後の田!

 現在の谷田の泉は、段丘の下部からわずかな水を噴き出しているにすぎないのか、土手で囲んだ下池というため池は水量があるものの、よどんで流は感じられない。スズメバチの巣が付近にあるため「注意」の紙がはられている。人影が少ないのはこのためか。南手には昔水田だった面影のある低地が広がり、水を流す水路が周囲を囲んでいて、一部に刈り後のイネ株が。

野田の歴史 2023・11・19 
 西武地区わが街研究会の資料によれば・・・正保(1644~47)田園簿によれば、野田村は高麗郡加治領に属し、水田102石、畑138石で、当時代官の支配地だった。1石が1人1年の消費量とされるから、240人くらいの集落だったことになる。正徳元年(1711)に川越藩領となり、享保19年(1734)には460石余で、水田ふ9帖反余、畑は84趙反余である。享保改革では村の北部(今の新光か?)が開発されたが、地質が悪く、冬季に北風が強く土壌を舞い上げ、麦作がままならず、以後長期にわたって苦しめられたとある。

2022年11月27日日曜日

新田次郎さん(故)と福井県の旅

 1.名刺の裏に流れる字体で書いたもの

  JA系雑誌社「家の光協会」の編集部に勤務していた昭和38年のことだ。正月休みに作家の新田次郎さんと福井県の旅に出た。当時私は27才、新田さんは53才ほど。夜行列車の車中泊を含め4泊3日の旅である。雑誌「家の光」(当時月180万部に近づきつつあり、日本一の部数)の企画ではなく、JAマンや農村エリート向けの「地上」誌(15万部?)の企画だった。

地元出身の有名人10人前後に、県内の3名所を選んでもらい、そこを作家が旅し紀行文を書いてもらう・・・というものだった。福井県で選ばれたのが①三方五湖、②永平寺、③東尋坊+芦原温泉。推薦者の中には俳優の宇野重吉氏、作家の水上勉氏、詩人の西城八十氏、主婦連合会の奥むめお氏、元農林次官の小倉武一氏などが含まれていた(すでに故人ばかり)。50年以上前のことで、改めて当時の「地上」38年4月号のコピーを家の光からいただき、確認できたことである。

下記の短歌は、東尋坊と芦原温泉を訪ねた際、翌朝旅館を出る前に新田さんが即興で詠んだ短歌である。当方の名刺の裏にすらすらと流れる字体で書いてくれた。小さな額に入れ、地元の喫茶店に一時展示したものの、せいぜい30人ほどの目に触れたに過ぎない。

尋ね来し 芦原のお湯に 咲く花の 
    黒き衣の やさしかりけり              昭和三十八年一月四

「黒き衣」とは、3日の夕食時に招いた40代くらい?の芸子さんのことである。芸子さんは「芦原温泉の華」であり、「心温まる接待をしてくれた」と、感謝の気持ちを表したシンプルなものと思う。だが、新田さん自身の「やさしさ」が存分に詠まれている。ネットを見ると、新田さんは辞世の句として「春風や 次郎の夢は まだつづく」が出てくるものの、俳句や短歌集というものは見当たらない。しかし几帳面な方なので、手帳などに沢山の俳句や短歌を書き記したのではないか。ともかく新田さんは世話になった人への配慮が、特に行き届いた人である。原稿を貰いに当時の気象庁に行くと、修正の入った下書き原稿をくれた。どこの雑誌の担当者に対しても、同じサービスをしたものと信じる。

2.なぜ正月休みの旅になったか
    恥ずかしいことだが、最近になりやっと新田さんの「富士山頂」(昭和42年9月発表-別冊文藝春秋)を読んだ。ここには克明に昭和37~39年当時の新田さん自身が描かれている。富士山頂上に世界最大出力の台風観測のレーダーを建設する国家プロジェックは、27年に予算が通り(3年越し)、38年、39年の2年間で設置工事を完了させることになった。37年に新田さんは測器課長に昇進していたが、富士観測所に勤務経験もあり、無線のエキスパートである氏は、予算作成から設置完成までの中心人物だった。

 すでに処女作の「強力伝」を昭和30年に発表し「役人作家」として気象庁内ほか広く認められる存在だった。新田さんの偉さは2足の草鞋を履きながらも、「公務に影響が出るような作家作業であってはならない」と固く自己規制していたことだ。このことは「正月3賀日の取材ならOK」ということにもよく表れている。富士山の気象条件は日本一過酷で、工事日程は夏場の限られた日のみ・・・38年の正月休みは、レーダー建設作業を前にしたしばしの休戦期間だったはず。

農村雑誌の編集部といっても、「家の光」の編集部は大所帯だったが、姉妹誌の「地上」は部数が少なく、編集部員は7人ほどに過ぎない。部員の多くは3Sと呼ばれる小説、シネマ、スポーツ等のほか一般的な政治・経済、家庭問題も担当するものが4人ほど、農業技術+経営を担当するもの2人、その上に編集長。農工大学農学部出の私は、いやでも後者の担当。先輩記者が忙しいときに代理で作家の自宅に原稿を取りに行く程度。故・水上勉さん宅に原稿をもらいに2回ほど行ったことがある。

「誰か、新田次郎さんと一緒に福井に行けないか」と、編集長が募集をかけた。先輩記者は妻子もいるため正月は家でゆっくりしたい。当方は結婚後まだ数か月で、子供も生まれてなかった。「それじゃ、私が行きます」と手をあげたものの、文学青年’に程遠く、新田次郎さんの本をまだ1冊も読んでいなかった。

このため、急ぎ氏の出世作の「強力伝」1冊だけを読み、「どうにかなるだろう」と当日を迎えた。昭和27年12月31日のことである。私の家は東京の荻窪、新田さんの家は中央線で西に2つ目の吉祥寺。同じ中央線族である。夕方4時ごろに家を出て、吉祥寺駅に行き、確か五日市街道のケヤキ並木を超えた場所の新田邸を訪ねた。奥さんが座敷に迎え入れてくれ、一緒にお茶菓子をつまみながら1時間ほど雑談。

奥さんが席を立ったすきに、新田さんは「じつは妻が先に作家になり、報道関係者が押し掛け、これに発奮して私も小説家になる決心をした」と耳打ちしてくれた。奥さんの藤原ていさんの「流れる星は生きている」についても、本来知っているべきだが、私にとっては初耳だった。

6時ころに奥さんに送られて家を後にしたが、このとき新田さんのいで立ちが印象的だった。私は1着しかない冬の背広にオーバー、そして靴も1つしかない並みの革靴。持ち物はボストンバックと会社所有のカメラ。新田さんは鳥打帽に登山向きの厚手のコート。その下にジャケットにチョッキ、ズボン。足のほうは頑丈な登山靴であった。

新田さんは山岳小説家と言われ、気象学者でもある。冬の北陸地方、そして軽い山登り(三方五胡での)を頭に描き、すべてを整えたようだ。私のほうは、気象や地形への配慮が全くない馬鹿げた服装だった。
<写真>三方五湖を眺める故・新田次郎さん(地上誌の原稿より)

3.三方五湖を眼下に丘下り
 東京駅に出て、寝台車でゆっくり米原に行き、敦賀―三方五胡のある三方駅に着き、このあとバスで海山という部落まで。着いたのは元旦の朝8時くらいだったはず。三方五胡の見える梅丈岳(バイジョウガタケ=395m)に楽に行くにはタクシーに限る。だが元旦とあってタクシーなど1台も見当たらない。とほうに暮れていたとき、小型トラックに乗った地元農家の50代の方が声をかけてくれた。「お困りのようですね。どこまでですか」「どうしても梅丈岳に行きたいのです」「それじゃ送りますよ」。この好意にすがることとした。

男性は新田さんだとは知らなかったようだが、名を紹介し目的も告げた。雪が少なく、なんなく頂上部に連れていってくれた。感謝の印を渡そうとしたが断られた。心からお礼を述べ、握手をして別れることとなった。新年早々から純朴な農家の方に会え、農村記者とすれば「好スタートが切れた」と喜んだ。

頂上は晴れ渡り、薄く雪がつもり輝いていた。一部の雪は解けて土が出ていた。眼下には五湖が東から日向湖、久久子湖、管湖、水月湖、三方湖と連なっていた。ここからは、新田さんの紀行文そのまま紹介しよう。

「五湖は・・・一湖一湖が、それぞれの個性を象徴するような形を持っていた。日本海の色に比べると、五湖の色調は沈んで見えた。緑色よりもむしろ青くさびた色だった。雲が動くと光の刺し方が変わった。雲間に洩れる光が湖の上をまともに照らすと、湖はサファイアのように輝きだし、光が雲にかくされると、冬のつめたい表情にかわった。私はこのすばらしい景観に打たれた。これほど美しい場所が日本にあったことを知らなかった自分を恥じた。・・・この絶景を見たあとでなにがあろうか、・・・私はこの足で東京に帰りたかった」 (・・・は一部省略箇所)。 写真はいただいた下書き原稿  


下の海山部落までは歩くしかなかった。天気が良く、歩けば厚着のため汗が出る。私は脱いだオーバーを丸めたものとバッグを、持っていた手ぬぐいで結び、振り分けにして肩に乗せ、山を下ることにした。浅い雪が日光で解け、べたべたしており革靴では滑る。両手を自由に使えないと事故につながる・・・と考えたからだ。新田さんが安定した足取りで下るのを、後から私がヨタヨタと追いかける。途中、何度も転びかけることもあり、厳しい旅の初日になった。このため「福井3ケ所巡り」と言っても、三方五湖のみが新田さん同様に、一番の思い出となった。新田さんも私も、ともに永平寺や東尋坊+芦原温泉は再度の訪問で、新鮮味をかんじなかったことも理由だろう。

 手帳に丹念にメモをする几帳面さ、そして接する人すべてにやさしい・・・こんな新田さんに惚れぼれした2泊3日の旅だった。新田さんは小説家に専念するため昭和41年に気象庁を辞められたが、私もまた新田さんから学ぶものがあり、志を抱き昭和40年に29才の若さで「家の光」を辞めた。

2022年11月26日土曜日

入間川の筏流しはリスクとロマン

 

写真:入間川のものではなく、かつ現代において再現したもののようです!

 名栗川の上流部の西川材を、入間川―荒川を経て江戸の千住・深川まで運ぶ・・・その主な手段が筏流しであった。筏流しは江戸の中期から、武蔵野線(今の西武池袋線、大正4年開通)が出来た大正の初期まで続けられたようであり、スタート時については正確な記録は残っていないが元禄時代(1688~1703年)というから300年以上前からになる。。 

 江戸時代、今の東京は急成長をとげ、また大火も頻繁に起き、木材需要はウナギ登りであったはず。トラックや鉄道のない時代、木材の筏流しは廉価で迅速な輸送手段であった。名栗から江戸中心部まで筏であれば4~5日で行け、大火などで需要が急騰したときは、一攫千金のロマンあるチャンス。流すタイミングが問われた。名栗方面は江戸に近い部類で、林業者、筏師ともに筏流しに情熱を注いだはずである。 荒川に入れば川幅も広く、流れもゆるやかになるので、筏をさらにつなぎ合わせ、このため名栗の筏師は川越まで運び、戻ったはずである。

 筏1枚は0.mから1.mの幅で、長さはまちまちで9~14.5mほど。名栗川の上流部では1枚で、下流部では2枚で流し、水量を見て飯能河原で複数つなぎ合わせる。何枚につなげたかははっきり分からない。埼玉県は県の面積に占める川の面積は日本一だそうだが、名栗川と成木川が合流した入間川となっても、水量が少ない部類の川である。楽々と筏流しができたわけではない。出水は「吉時」とされ、雨上がりの水量の多いときを見て断続的に流したようである。

入間市の黒須当りまでが上流部とされたようで、各所に水をせき止め水田や水車等に流す堰があり、川に竹で編んだすのこ状のものを敷き、このすのこ状の上に魚を誘導し捕る簗がある。これらを筏が壊すことがあり、14地区ほどの当時の市町村が取り決めして、1ケ所ごとに当時の金で3~4践の賦課金が徴収されたようである。 仏子のリバーサイドは昔は水田だったという。そして水車小屋も存在した。これらに水をおくるため、今の中橋上流部に堰を設け分水していたはず。明治時代の1円は今の2万円に相当。4践は今の金で800円ほど。堰や簗が10ケ所あれば8,000円を上納することになる。夜は筏師は寝るので、河川沿いには船宿地区が存在。この費用もかかり、さらに下記のような訴訟費用もかかる。

 黒須から下の方にも堰、簗や木製の橋がいくつもあり、これに当たって壊すことが度々おこり、地元が奉行所や裁判所に訴えた記録が多数残されている。この記録については15年ほど前、飯能市の図書館でコピーして保存していたのだが、残念ながら今探しても見当たらない。いずれにしても、筏流しには大きなロマンとともに大きなリスクがあったことが分かる。リスク以上のメリットを得るため、筏の横幅や長さを少々ごまかすことも行われたと記されている。

 結局、各種のリスクを考えると、大きな後ろ盾が必要・・・このため筏師は本来、山地を背景とした「材木を扱う経営者」を指し、実際に筏を流す人は「筏乗り」と呼ばれ、18~19才ほどで修行にはいり、1~2年の見習いをし2年で1人前とされた。


2022年11月22日火曜日

武蔵野音大のホール「バッハザール」は仏子の宝物

 

 写真① 中央にパイプオルガン。木の美しさを発揮した舞台に天井と壁。

  11月20日(日)に仏子駅南口から5分の武蔵野音楽大学入間キャンバスの大ホール「バッハザール」で、入間市合唱連盟と入間市教育委員会共催の「入間市民合唱祭2022」が開催された。この中身は後で触れるとして、驚いたのはホール「バザール」のすばらしさである。20年仏子に住み、アミーゴや西武公民館などで開催される合唱や演奏会には度々出席もしてきた。だが、「バッハザール」の存在を知らずにきた。加治丘陵の展望台に登るため、音大すぐ脇の急坂を何度か登った際、「急峻な丘に校舎が展開する珍しい学校だな」と興味を持ったものの、中を見るに至らなかった。







                   写真⓶ 鋭角的な木の柱状の横壁。音を集める効果を狙ったものか?









 



写真③ 休憩エリアの彫刻

今回、やっと校門を入ることができ、50mほどの坂を登り「バッハザール」にたどりついた。4人の仲間と建物に入り、そのホールの耀きに接し圧倒された。3階建て以上とも思われる高い天井。天井だけでなく壁も含め木目も見える美しい板が張られている。左右の壁は音を集めるためか階段状にいくつもの凹凸がつくられている。そして中央正面には3階建てに匹敵する形でパイプオルガンがはめ込まれている。舞台といえば、奥は傾斜状に何段かに分かれた床があり、その前には「100人でもドンと来い」の広い平面の舞台がある。1階下がった休憩場風のところには、素晴らしい彫刻が10ほど展示されている。 

 仏子のキャンパスには武蔵野音楽大学の1,2年生が通っていたのだが、江古田の本校の新設校舎に移りすでに久しい。「バッハザール」は、主人公不在のまませっかくの宝物が、朽果てる存在になりはしないか・・・心配するのは私だけではないはず。音大、入間市、市教育委員会、画商談、楽器演奏者など、関係者が一体になり、「バッハザール」の維持・発展をぜひ検討して欲しいものだ。    


   11月20日の合唱祭には市内の19の合唱団が参加した。女性コーラスグループが多かったが、混成も1グループ、男性のみも2グループあった。男性グループの「白月」は仏子・元加治地区の歌姫と言える大城みほさんの指揮で、私にも馴染があり、興味を持って聞かせていただいた。豊岡高校音楽部のコーラスは最高の人数で歌ってくれた。いずれにしてもどのグループも衣装まで統一し、歌の方もかなり高いレベルなのに感心した。 

写真④ 最大人数の女性コーラス   ?
写真⑤ 豊岡高校音楽部の合唱

 望むらくは、もう30分でも時間を取り、コーラスの合間に地元優秀バンドの演奏、地元歌手の独唱なども取り入れたアクセントが欲しい。そうすれば、純・観客も増え、コーラスをする人たちの士気もさらに鼓舞されるのでは。

2023年10月7日(土)午後2時開演 第44回 市民コンサート

 会場 武蔵野音楽大学 入間キャンパス バッハザール

武蔵野音楽大学管弦楽団 指揮:和田一樹(武蔵野音楽大学講師)

 チューバ独奏:加藤 凛太朗(武蔵野音楽大学4年)




2022年10月28日金曜日

汚れがひどいガードレール・・その美化対策②

       ホワイト・エンジェル構想     

  1.見るに耐えないガードレールの汚れ

 いま街中の風景にあって、最も汚く美観に反しているものは何か、考えたことありますか? 答はガードレール(波板状のレールと円筒状のパイプの2種を含む)である。車の暴走から人間を守る大切な設備だが、9枚の写真のように、サビや苔+泥で表面が覆われているケースが全体の半数にも及ぶのでは。ときに文字が落書きされていることもある。


写真① 20年近く経ち、全体にサビだ噴き出している。通学路脇である。


写真⓶ 車の接触で起きたサビばかりでなく、運搬時のスレからもサビが起きる
写真③ 雨水の飛び跳ねにより、裏側は土砂と苔で全面よごれている。
写真④ 目立つ場所程落書きが多い。5ケ所程消してみたが、幸いその後落書きなし

 普通、白く塗装されているが、白は清潔、純真、明るさ、シンプルなどの象徴だが、学童の通学路の場合、毎朝サビだらけのガードレールに挟まれて通うのでは、晴れやかな気持ちになれないし、家庭内外の美観教育の面でマイナスである。インバウンドによる観光立国を目指している現状を考えても、美しいはずの日本のイメージを損なうことになる。 

なぜガードレールが決まって汚いのか? 法定償却年限は普通10年とされているが、実際はサビや汚れがひどくても20年も保つ。この建造物の管理者は国道なら国、県道なら県、市町村道なら地元の自治体となり、予算不足で新しい物への交換は、車がぶつかり変形した場合のみに限られているように思える。サビたり土やコケで汚れても、再塗装するとか洗い流すという概念がない。だれも塗装や洗浄現場を見かけた人はいないはずである。

最近はサビやコケの汚れが目立たない、黒褐色のガードレール等に転換をはかる市町村も増えている。問題は現在設置されている白のガードレールの汚れをどうするかだが、予算が不足で新規交換はもちろん、塗装や洗浄が全面的に出来ないとすれば、第3の策を模索すべきだ。つまり費用をかけず美化を図る塗装という方法である。 

2.自治会やボランティア団体の活用

交換の場合、(イ)1枠3mのガードパイプで平均31,500円、(ロ)1枠2mのガードレールで平均21,000円ほどかかるようだが、仮に塗装や洗浄をボランティア団体や地元自治会がすれば、当方の試算では(イ)で2,500円、(ロ)で1,800円程かければ済む。交換の10分の1以下の出費である。 

経費の内訳だが、私の実証実験からすると1枠当りの経費は(イ)の場合、市町村や県、国の管理費500円、ペンキやハケ、雑巾等の資材500円、ボランティア団体等の受け取る労働報酬1,500円の計2,500円。(ロ)では400円、400円、1,000円の計1,800円ほどである。管理費については、あくまで「この程度で抑える」という目標値・・・現場の事前・事後の点検、資材の調達、市町村・県・国相互の連絡、警察との協議等を含む。100枠単位を原則とし、(イ)では1事業25万円、自治会等の労力報酬15万円、(ロ)では1事業費18万円、自治会等の労力報酬10万円とし、年10団体程を指定していけば、15万人程度の市町村でも2~3年でガードレールの完全美化が達成可能と見る。なお当方のやや不完全な試算だが、1時間2千円の労働報酬になり、決して低額でも高額でもない。 

団地内等のガードレールのプロの塗装を見ると、スプレー式で表目もつやつやしている。素人の刷毛による塗装だとムラもあり、刷毛あとも出る。しかし2度塗りをして整えれば、2mも離れるとほとんどスプレー塗装と見分けがつかないし、5年くらい見た目の良さが維持できる。11年目、16年目に作業を実施すれば20年間かなり美しい姿が維持できると見る。 

自治会やボランティア団体を作業実施主体にするのは、美観の廉価維持とともに、これら団体に金を流し経済的に支援して活動の活性化を図る・・・といった一石二鳥を狙うからだ。白いペンキとボランティア活動の融合を考え、私はこれらの行動を勝手に「ホワイト・エンジェル構想」と命名している。今後人口の急減で市町村財政はますます苦しくなる。一部の公共活動に住民が参加し、廉価に実施していく必要があり、その先鞭をつけることにもなる。ガードレールの塗装は、今まで行われてこなかったことで、塗装業者を圧迫することもない。 

問題は国道、県道、市町村道ごとに管理者が異なり、各国、県、市町村にそれぞれ了解を得る必要がある。さらに管理者以外が道路内の工事や作業を行う場合は、実作業者が場所、日時も明確にし、地元警察に「道路使用許可書」を提出する必要がある(この書類は3万円も払い司法書士にまとめてもらう必要すらある)。幸い道路管理者自身の工事や作業は「地元警察署と協議すればよいことになっている。問題は、道路管理者でない一般住民が、管理者の許可なく、善意で道路の清掃や草取り、ガードレール等の塗装をすれば「違法行為」として罰せられる可能性があり、こうした善意の行動が奨励される仕組みを創る必要がある。 

行政側が「ガードレール美観維持の全国共通のルール」なるものを決めれば、簡単な道路許可書を記入し、警察に事後に提出するだけでOK・・・ということも可能になるはず。そうすれば年2回の清掃デーにおいてもガードレール等の清掃も可能になる。 

いずれにせよ事務手続きは、素人集団の自治会やボランティア団体に任すのでなく、1枠(イ)500円、(ロ)400円といった予算枠のなかで、市町村の道路課が一括処理するのが妥当である。費用はそれぞれの道路管理者が負担するわけで、県、国が管理者の場合、市町村がそれぞれに実額を県、国に請求する。そして市町村が自治会やボランティア団体等に労働報酬を払い、資材は市町村が一括調達し、団体側に必要量を渡す形が望ましい。 

自治会やボランティア団体は、仮にAで100枠、Bで150枠を請け負えば各15万円が報酬となる。3~4人1組で3~4時間の作業を3日もすればこれを消化できる。打ち合わせや安全管理の手間まで入れても、時給2,000円ほどになり貴重な収入源になり得る。貢献度で分配するもよし、プールして全体の運営費にするもよしである。日本では寄付というものが定着しておらず、多くのボランティア団体は身銭を切って活動している、この改善に少しでも役立つはず。 

問題は手をあげる自治会やボランティア団体がどれほどあるかが、懸念材料と言える。草刈り隊とか労力本位の活動をしているボランティア組織だけでなく、芸能ボランティアや女性組織であっても、体力仕事でないので(丁寧仕事)実施可能と見る。提案者は86才のブログによる有益情報の発信、芸能や緑化のボランティアだが、1時間に10分程度の休みを挟めば1人でも一気に10枠程の洗浄・塗装作業もできた。問題は作業の厳しさよりも、走行する車から身を守る安全対策が最重要である。 

緑の牧場に白い牧柵が映えるように、真白なガードレールは町や村の美観を引き立てる。花一杯運動のようにガードレールの美化運動が、全国に広がることを望むものである。この普及のため説明会に呼んでいただければ(ただし有償)喜んで伺う次第である。

                                   近藤 穣

 

      ガードレール(&パイプ)塗装作業マニュアル

1.安全第1主義

①3~4人の組作業とし、必ず1人は自動車備え付けの赤いニンジン棒を持ち、安全管理の権限と義務を果たす。

⓶自動車の進行が見えるよう、車の進行方向と逆方向に作業を進め、安全管理者は反対側車線の歩道から適格な避難の指示を出す。

③塗装作業者は歩道の内側より身を乗り出す形で、汚れの拭き取りや塗装作業し、よほど交通量が少ないときのみ、ガードレールの外側で作業する。

④車が50メートル以内に接近する前に、ガードレールの外側での作業、内側から乗り出した作業は完全中止する。歩道内側の作業はこの限りでない。

 ⑤歩行者へのペンキの付着を避けるため「ペンキ塗り立て」と書いた用紙を準備し、6m間隔ほどに分かるよう表示するとともに(A4半分に赤文字で記入)、歩行者の安全についても十分に配慮する。 

2.用意すべき塗装用品他の備品

(本来、市町村で一括準備すべきもの。各パイプ100枠、レール150枠の税込概算)

①ペンキ 現在は扱いやすい水性ペンキが力で、質も向上水性多目的用途1.6Lが1缶税込み4,070円×11缶=              

                                          44,770円

⓶刷毛  徳用幅70mm=1本184円×4本=   736円  

   徳用幅30mm=1本129円×4本=  516円 

③軍手 日本一軍手 12組×4入り(多すぎ)    959円             

④金ブラシ 小判型ブラシ面約4×5cm(金額調整項目) 

,612円

⑤雑巾 20×30cm綿×10枚=382円 ×2

                       764円

⑥薄め液 手や服についたペンキの除去                                                

1缶400ml        643円

合計  (パイプ3m幅100枠分 レール2m幅150枠分)

 50,000円

  作業衣 水性ペンキと云えども、純化繊の衣服以外はいくら

洗っても取れない。このためペンキがついてもよい着古しの作業着を用意。前掛けをつけるのも良い。   自己負担                                   

  ペンキのタレ防止板 段ボールや薄板を30×120cmの

切り、短辺に穴をあけ、針金90cmを取り付け引っ張れるようにし、塗装する位置の下に敷く・・・これにより路上にペンキが垂れるのを防ぐ。                団体負担 

3.作業は3~4人の班編成で

 ①ガードレールは、コケや泥を洗い流す作業が主、塗装作業が従の面が強い。1人が安全管理、1.5人が雑巾とミニバケツを持った洗浄要員、0.5人が部分的な塗装作業の3人編成で良い。 1枠が普通2m。

 目標所得を1時間2.000円とすると、1枠の目標作業時間計10分。3人のため合計作業時間30分。

 ②ガードパイプは、パイプが上下4段や花柄の入った複雑なものもあり、1人が安全管理をし、1人は金ブラシによるサビの除去と雑巾による拭き取り、1人が溶接した継ぎ目など細かい部分の塗装、1人がパイプ主要部分の塗装と4人編成が良い。1枠が普通3m。 目標所得を1時間2,000円とすると、1枠目標作業時間11.2分。4人のため合計作業時間45分。 

4.ガードレールの塗装

 ①ガードレールは、塗装の厚みが厚く、コケや土砂を拭き取ると新品のようにきれいになる。ために、まず洗浄重視だ。雑巾にたっぷり水を含ませ、固まった汚れを溶かす気持ちで拭き、そのあと2~3分置いて水気を絞った雑巾できれいにふき取る。10分も置かないと取れない頑固な汚れもある。

 ②ガードレールは表面のイ)最上部の前出し傾斜、ロ)S型のへこみ、ハ)前出しの緩いカーブ、二)急傾斜のへこみ、ホ)裏面全体・・・とほぼ4傾斜部と裏面に分かれる。コケ+泥の汚れがひどいのはロと二、裏面のホである。

表面でも、反対側の歩道に立つ安全管理者から適切な部位の指示を受ければ、車道に立たず、歩道側から手を出すか、身を乗り出すかで作業は可能である。裏面は歩道側のため安全・容易に洗浄が可能だが、ほぼ全面が洗浄の対象。たいがい真っ白になる。

 ③小さなバケツに水を入れ、雑巾の濯ぎを徹底する。このため自動車等に、充分に補充できるようポリタンクに水を入れ積んで行く。水が不足し、すすぎが不十分だと拭き取っても汚れが残る。

 ④ガードレールは、車の衝突等で変形した場合は交換され新品状態で、このような枠は作業範囲から除く。サビは主に搬送時のスレ、車によるスレ、変形による塗装の剥がれから生じる。このためサビは出張ったイ)の部分に集中し、歩道側から塗りやすい。

⑤サビの多い部位は、この他では枠ごとの支柱、特にその頭部、レール板のねじ止め部分(もともと塗装なしのため錆びる)。かならずこの部分も塗装する。

塗装部分は完全に乾いたのち(夏場1時間、冬場2時間ほどか?)、2度塗りをする。1度塗りだけでは、乾燥時に水分が蒸発する際に微細な穴が出来、サビを誘うからである。 

5.ガードパイプの塗装

 ①1人が安全管理、1人がサビ落としと洗浄、2人が細部と全体に分けて塗装を担当する。

⓶サビがかなり進行して凸凹が目立つ部位は、かならず金ブラシでサビを掘りおこし、やや湿った程度の雑巾で拭き取る。パイプの下面にコケや泥が付着している例も多く、これは乾いた雑巾か濡れ雑巾で塗装前に拭き取る。

 ③パイプの接合部などがサビやすく、広い刷毛では塗りにくい部分を細い刷毛で先行塗装し、そのあと縦・横のパイプの主要部分を塗装する。

  ペンキはあまり薄めず、塗りにくいが厚く塗る。しかも完全に乾いてから、微細な空気の抜けた穴を防ぐべく、完全乾燥後(1~2時間後)に2度めの塗りをする。特に最上段が錆びやすく、丁寧に塗装する。 

6.作業後の後始末と労働報酬の配分

 ①あらかじめ「ペンキ塗り立て」の用紙を作っておき(B4の半分。赤文字)、6m間隔ほどに貼る(あとではがしやすいようヤマトノリのようなものを使用)。

 ⓶手足についたペンキは薄め液で拭き取り、衣服についたものも完全な化繊品ならば、薄め液で拭き取れる。

③刷毛は安いものでも、水でペンキを完全に拭き取っておけば、2~3度は使える。空き缶に水を入れ、これに差し込んで置く方法でもよい。

 ④ペンキの空き缶は仕入れ先に引き取ってもらうため、どこか雨の当たらないところに集中保管をし、市町村経由で回収。

  作業後、速やかにイ)作業開始時間、ロ)休憩時間、ハ)終了

時間、二)完了したレールとパイプの枠数、ホ)各人別の作業時間、へ)給与品以外の購入資財の値段と数量(追加請求のため)・・・等、必要事項を記録する。このためあらかじめ記録係も決めておく。

  労働報酬はイ)各人の作業時間を正確に割り出し、個人に完全

に配布する方法もあれば、ロ)半分なりを団体活動に使う、ハ)個人に配分はせず、全面的に団体活動に充当・・・など3通りの利用法があるはず。この点について十分検討し、結論を得てスタート。

なお時給換算2,000円は実証例が少なく、必ず実現できるとは限らないし、それ以上もあり得る。最低賃金は府県で異なるが、1,000円程度であり、2,000円はこれより高いが、野外の汚れ仕事であり、散発的な仕事のため高すぎるというものではない。また課税問題等は専門家のアドバイスが必要。

 なお、得る作業報酬を公平にするには、ガードレール、ガードパイプの長さの違い、ガードパイプの場合規準を3段式に置き、段数や文様の違いを考慮し、所要時間を決め、これ等を加味し請負枠数を決め、報酬も決める必要がある。この1覧表も型式別の写真付きで作成してある。

    

  ホワイトエンジェル構想に協力できる方やボランティア団体、町会の方は 

是非 jkondou@biscuit.ocn.ne.jp   近藤宛に連絡乞う。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 写真:通学路に面した場所。左側は塗り直した箇所、右側は現状。


2022年10月9日日曜日

いるまクラフトフェア 10月9~10日(令和4年)

 



写真① この通り、にぎわっていた。 

  仏子のアミーゴの4年ぶりの「秋祭り」です。10~16;30でしたが、演劇や演奏もありました。出店も30店以上と充実しており、子供さんも大人も楽しめる内容。うち車を使った飲食関係も4店・・・ファストフード各種、カレー、かき氷、アイスとにぎやか。




 

写真⓶ 飲食の車販売 


写真③ 森林ボラティア?の人による
    丸太の木こり体験コーナー
           大きなノコが写っていません

  






  



写真④ ヒノキを使った家具や置物


 

   




  

  写真⑤ ガラス細工も実に美しいものですね。

   ボランティア組織により大鋸で丸太を引く体験コーナーはいいですね。コケを使ってミニ庭園を造るコーナーも人気。木工品の店も3店ほど。他に陶器が2店ほど。ガラス細工も2店ほど。

 

 


写真⑥ コケ(苔)を使って

庭園つくりー大瓶の中は庭園




写真⑦ 歩きつかれたら、こんどは移動販売車で飲食を!

  

  他に錫や銅を打って食器他に細工する店、スズや銅を打って加工する店、ビー玉の加工品を作る店、ガラスのブローチを作る店、20cm足らずの疑似ピアノを作る店、ドングリでコマを作る体験店など、たくさんの子供さんを巻き込んだ企画がありすばらしい。このほか野菜の直売所、お茶の販売店、タオルやマフラーの店・・・と実にバライティに富んでいました。別途ステージでは音楽の演奏や演劇も。こちらは時間がなく、あまり見ずに帰り残念でした。 

久しぶりに仏子に明るさを取り戻したイベント。多くの人に見てもらうべき催し。来年以降は今年来なかった人もぜひ行ってあげてくださいね。