写真:入間川のものではなく、かつ現代において再現したもののようです!
名栗川の上流部の西川材を、入間川―荒川を経て江戸の千住・深川まで運ぶ・・・その主な手段が筏流しであった。筏流しは江戸の中期から、武蔵野線(今の西武池袋線、大正4年開通)が出来た大正の初期まで続けられたようであり、スタート時については正確な記録は残っていないが元禄時代(1688~1703年)というから300年以上前からになる。。
江戸時代、今の東京は急成長をとげ、また大火も頻繁に起き、木材需要はウナギ登りであったはず。トラックや鉄道のない時代、木材の筏流しは廉価で迅速な輸送手段であった。名栗から江戸中心部まで筏であれば4~5日で行け、大火などで需要が急騰したときは、一攫千金のロマンあるチャンス。流すタイミングが問われた。名栗方面は江戸に近い部類で、林業者、筏師ともに筏流しに情熱を注いだはずである。 荒川に入れば川幅も広く、流れもゆるやかになるので、筏をさらにつなぎ合わせ、このため名栗の筏師は川越まで運び、戻ったはずである。
筏1枚は0.9mから1.2mの幅で、長さはまちまちで9~14.5mほど。名栗川の上流部では1枚で、下流部では2枚で流し、水量を見て飯能河原で複数つなぎ合わせる。何枚につなげたかははっきり分からない。埼玉県は県の面積に占める川の面積は日本一だそうだが、名栗川と成木川が合流した入間川となっても、水量が少ない部類の川である。楽々と筏流しができたわけではない。出水は「吉時」とされ、雨上がりの水量の多いときを見て断続的に流したようである。
入間市の黒須当りまでが上流部とされたようで、各所に水をせき止め水田や水車等に流す堰があり、川に竹で編んだすのこ状のものを敷き、このすのこ状の上に魚を誘導し捕る簗がある。これらを筏が壊すことがあり、14地区ほどの当時の市町村が取り決めして、1ケ所ごとに当時の金で3~4践の賦課金が徴収されたようである。 仏子のリバーサイドは昔は水田だったという。そして水車小屋も存在した。これらに水をおくるため、今の中橋上流部に堰を設け分水していたはず。明治時代の1円は今の2万円に相当。4践は今の金で800円ほど。堰や簗が10ケ所あれば8,000円を上納することになる。夜は筏師は寝るので、河川沿いには船宿地区が存在。この費用もかかり、さらに下記のような訴訟費用もかかる。
黒須から下の方にも堰、簗や木製の橋がいくつもあり、これに当たって壊すことが度々おこり、地元が奉行所や裁判所に訴えた記録が多数残されている。この記録については15年ほど前、飯能市の図書館でコピーして保存していたのだが、残念ながら今探しても見当たらない。いずれにしても、筏流しには大きなロマンとともに大きなリスクがあったことが分かる。リスク以上のメリットを得るため、筏の横幅や長さを少々ごまかすことも行われたと記されている。
結局、各種のリスクを考えると、大きな後ろ盾が必要・・・このため筏師は本来、山地を背景とした「材木を扱う経営者」を指し、実際に筏を流す人は「筏乗り」と呼ばれ、18~19才ほどで修行にはいり、1~2年の見習いをし2年で1人前とされた。
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