昔の水田部。水田には無数の上田、中田、下田、下下田の文字が書かれている。
野田という名は、南北朝時代(1336~1392年)からあったそうで、武蔵七党の円党に属する野田氏が開拓した土地だから、その名がある。
仏子エリア全体の古地図にはまだ接していないが、入間川北側の野田については、明和4年11月(1767年・・・今から255年前)に記された「野田村絵図」という古地図が西武図書館に保存されている。ほぼ、今の野田のエリアに近いと思われ、谷田の泉の南西部に楕円形の、そして円照寺の北部にはおしゃもじ型や、東西に延びる細長い田んぼが見られる。全体の面積の20%以上は田んぼだったのでは。
田んぼには必ず上田、中田、下田、下下田と4区分の字が無数に記されている。これは、田の年貢取り立てのための生産性(収量)の差を現わすようで、この地図は、地元領主が年貢取り立てのために描かしたものと思われる。畑にも上畑、中畑、下畑の文字が書かれている。
当時の人家も1戸ごとにマーク的に描かれており、私の計算だと137戸になる。現在の大字・野田は2022年11月現在4,203世帯であり、30倍も戸数がふえたことになり、明治以降~高度成長期に急速に住宅地として拡大してきたと言える。
住宅地の中の「おしゃもじ田」のところも、2~3年前はかつて田があったことを思わせる底地だった。円照寺以北の水田は、入間川から水を引くのでなく、谷田の泉近くの田のように、段丘の湧き水に支えられていたはずである。谷田の泉=「下池」の西方向にもう一つ「中池」というため池もあり、田の水源になっていたため、谷田の水田といわれるものが、水田としては最も広く描かれている。他の水田は飯能側から流れこんだ川沿いに細長く東西に延びる田がほとんどで狭い。。
谷田の泉と周辺.
写真:上は「下池」と言われる
谷田の泉を支えるため池
中は「谷田の泉」の説明板・・・詳しく非常に参考になる。
下は昔、泉につながる水田だった低地…驚き!水田が現存した!!
小学生さん等のための実験田か?刈り残しのイネ株ー野田最後の田!
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