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2023年3月26日日曜日

関東一の農産物販売所か?所沢の「食の駅」

  入間市からはやや遠いが、埼玉県所沢市下富字駿河台に「食の駅」という大規模な農産物直売所がある。新所沢駅北側の踏切を越え3kmほどの郊外地だ。誕生は平成26年11月19日。私の別ブログ「農業・商業お助けマンで、ナンバーワンの7,000回越えのアクセスがあり、他の直売所の10倍ものアクセス数のため、関東一の人気店・販売高店と言えそうだ。入間の人も一度は気分転換のため訪ねて見るに値する。群馬に本拠地のある株ファームドゥの南関東への足場作りの1店と言える。 


ファームドゥは群馬9だけでなく埼玉3、東京1、千葉1、神奈川1と計15店の大型の直売所「食の駅」を出している。海外事業や太陽光発電事業まで考えている進取性のある企業で、先々の伸びシロは途方もなく大きい。
<写真>直売所とレストラン「彩乃菜宴」
所沢店に限っても、駐車台数137台分、直売所の売り場面積約300坪と大きい。
最近紹介したJAいるま野の「あぐれしゅ狭山」の売り場は約166坪で、1.8倍もある。別棟で地産地消素材のバイキングレストラン「彩乃菜宴」も持つ。トイレも男女計11ほど確保し、道の駅らしさを意識している。レジが6台だから年商7~8億円が目標と思う。

   
 下がり壁の部分に農業の風景をあしらった大きな3枚のイラストが描かれ、野菜についてのイロハかるたが数十枚が吊るされ、農業を知らしめる配慮が特に好感できる。コメのコーナーにも稲穂が展示されている。
<写真>下がり壁に農業の大きなイラストや野菜のカルタ

直売所は、背後に農業者5,000戸や多数の日配品ほかの加工業者を組織しているだけに、品揃えはワイドである。野菜は6間幅で10列、花卉が6間幅で2列。ネギは出盛期のせいもあるが、サラダネギ、小ネギ、下仁田、深谷と揃えアイテム数は30ほどもある。ホウレンソウ・コマツナ等の葉物だけで6尺平台5本ほど。ダイコン、ニンジンなども実に豊富である。生産者も群馬だけでなく、地元の埼玉の人も多く、売り場に氏名と似顔絵のプレート表示もされている。 


青果以外の充実度も抜群・・・まず精肉は地元の近江屋が担当するが、多段オープンで28尺。豚肉は100g麦豚ロース肉258円、同バラ肉208円、鶏モモ肉138円(これは中庸以上のしっかりした価格)。もちろん牛肉も豊富。加工肉も多段で8尺分。鮮魚は生魚を避け、塩干物中心に平オープンで20尺。別途練り製品が多段で8尺だ。生魚を除けばほぼスーパーに迫る品揃えである。 

  
惣菜類はまだまだ開発の余地が大きいが、ジャンボなチキンカツ1枚180円、メンチ1枚150円、コロッケ1個80円、カニクリームコロッケ1個120円、このほかこれらも取り込んだ鶏かつ丼など弁当類も5品ほどあり(398~480円ほど)、平台で大量販売されている・・・レストラン部で製造している様子で、レストランとのコラボと言える。他にも冷ケースでサラダ、煮物惣菜も6尺分ほど売られていた。
 
入り口近くの冷ケースでは、オリジナルな和菓子やケーキ・・・例えば生麩まんじゅう、どらやき、アップルパイ、川越芋シュークリーム、芋羊羹、クリーム大福、チーズクリーム大福、草餅、焼き団子、シーホンケーキ、パウンドケーキも売られ、軽い土産物となりうる特産品コーナーをなしている。当方の推奨品はチーズクリーム大福4ケ300円である。妻も喜んでくれたが、「どこにもない、とろける味」である。 


日配品はもともと充実しており、多段オープンで牛乳類が8尺、その他日配品が12尺ほど。その他の冷ケースはジュース類12尺、ビール12尺。酒類はこのほか非冷棚12尺ほどで清酒・洋酒が販売され充実。これと向き合うドライ食品・干菓子のコーナーも6間4列と充実している。 


出口寄りの最後のコーナーは米・雑穀である。米は仕切られた見える容器の量り売り品が12アイテム、平台に陳列されたクラフト袋入りが25種ほども陳列され、選択性が広く大量販売にむすびついているはず。雑穀も量り売りされており100gが金時120円、黒豆120円、小豆120円、大豆80円。コーヒー豆の樽売りのような演出がされている。稲穂ほか店全体の個性的演出は、他直売所が学ぶ点が実に多い。
<写真>米・雑穀コーナー



 なお、彩の菜宴は90分食べ放題のバイキングだ。11~15時のランチは大人1,500円、子供800円、幼児500円。17~21時のディナーは大人1,700円、子供1,00円、幼児500円。茨城の某JA直売所付帯のバイキングレストランは大人1,800円・・・安さも配慮している。


写真-バイキングのメニューは新鮮野菜が売り
 
ファームドゥ全体は、しばしばテレビでも取上げられた多様な個性(質的に異なる3業態=援農‘S、食の駅、地産マルシェの展開、農家の広い組織化、直営農場の経営、海外進出、太陽光発電=エコなど)を持つ優良企業だ。これらを理解してもらうPRがどれだけされているか・・・もう少し細かい説明パンフ等が欲しい。 


もう一点は、地域の「駅」を名乗るからには道の駅のように地元の観光スポット等の情報を提供する場になって欲しい。特に所沢・狭山・三芳・にまたがる地区は、世界文化遺産への登録も考えられた「三富(さんとめ)農業」の地区で、かつて人口林を組み込んだ落ち葉による環境保全型農業がやられてきた。また駅を起点にして見て回る価値ある寺社仏閣も多い。群馬県からの参入者で終わることなく、地元に馴染み、その観光資源を開発する道の駅になり、地域活性化にも貢献して欲しい。

7月21日(火曜) 夏休みイベントも充実!

 毎日のように近くを車で通過するものの、久しぶりに訪問。どこの直売所よりも充実した企画で夏休みを迎えているように思う・・・やはり組織が大きく、マネージメント力・企画力といったものが素晴らしい。


写真-冷やし中華や搔き氷の店頭販売(日限定)

  店頭では冷やし中華のカップ250円、搔き氷150円、焼き団子88円が売られ、店内ではメーカーブランドではなく、ファームドゥが選んだ○○さんの桃とかスイカ、ブドウもあるし、地方産のオリジナルな加工品が山ほど並んでいる。巨大でカラフルな店頭ポスターによれば、新潟コシヒカリの試食販売、スイカ割り大会、体験農場(所沢)での収穫祭など日替わりのイベントがメジロ押し。収穫体験はトウモロコシ、ミニトマト、ナス、ピーマン、サツマイモなどだ。
写真ーオリジナルな果物、うどんほか加工食品のギフト。
写真-カラフルでイベント盛りだくさんの店内チラシにPOP

H28年5月29日
 このブログのアクセス数は群を抜いており、5月27日現在2,189回である。もともと群馬の企業ながら、埼玉の地元生産者もすでに充分すぎるぐらい巻き込んでいるのは素晴らしい。正面の下がり壁に地元協力者の名が木版で表示されているが、その数はいずれも埼玉だが、所沢市72名、三芳町21、ふじみ野市9、狭山市5、富士見市2、志木市1、新座市2、川越市6、その他10ほどで、計128ほどになる。

実際に野菜の産地名を見てみると、確かに群馬の前橋、高崎、伊勢崎、沼田、などの名も出てくるが、地元埼玉の名が3分の2以上と思われる。地元のJA直売所が苦戦しているのとは対照的である。

季節品をどう売るか!
 本ブログの中で、最速のアクセス数を誇る。H28年12月20日現在のアクセス数は3,398で、1kmほど離れたJAの「あぐれしゅげんき村」の10倍のスピードであり、年間1,800件になるはず。その魅力をJAやその他の直売所は、その魅力を謙虚に学んで欲しいものだ。

 正月商戦はこれからだが、本直売所のH27年末の商戦を紹介しておきたい・・・所沢店は標準型スーパー(450坪)より狭い300坪にもかかわらず、正月商材、冬の季節商材に広いスペースを当て、かつ個性的なアイテムを豊富に置いている。

正月・冬の季節用品についてみれば、外では冬の花類(ハボタン・ストック他)、焼き芋、焼き団子(テナント)も展開され、台車によるハクサイの大量陳列もされている。入り口を入るとすぐに6尺平オープンで、年越しそばが4アイテム大量陳列。早速購入したが田舎そば2人前が135円、山芋そば2~3人前160円、狭山茶そば2~3人前180円、戸隠そば220円(いずれも税前)等だ。地元メーカー品である。ケースの演出も写真の通りで目立つ。入り口正面の平台には伸し餅の1,580~2,000円も3アイテムある。
写真① 入り口際で「年越しそば」の4品の販売

第一コーナーの奥には、かまぼこやだて巻きの8尺平オープンを埋め尽くす。その他のお節関係品の6尺平オープン3台が手前にある。壁面の8尺多段ケースでは、年越しと正月用の牛肉1,800円前後とか、豚肉の500円前後の大口パックのが山をなす。ともに安さにあふれたものだ。

写真② 第1コーナー奥の蒲鉾・伊達巻のオープン平ケース 

写真③ 肉も大型パックで、暮れの大量買いを促がしていた
写真④ ダイコンだけでも20アイテム以上

 青果の季節品の葉物や根菜のコーナーは6尺×6台の4列ほどで、その生産者別のアイテムは、ネギ、ダイコン、ニンジンともに20以上、ハクサイも山をなす。












写真⑤ 切り花も3段式にして見やすく、かつ豪華な演出

 レジ前にの切り花も2段以上の陳列で、暮れらしい見せる陳列がされている。出口脇には松飾があり、出口横には5,000円とか2,000円の蘭(ラン)も売られている。
写真⑥ 出口脇に松飾

2.スーパーを凌ぐ加工品の販売
 気が付くのは、季節品や売れ筋の菓子や加工食品について、オリジナルなアイテムをスーパー以上に揃えていることだ。たとえば米菓(せんべい・あられ)については、4尺ゴンドラで4本もある。50アイテムは超えるはず。中には割れせんべいもあり、スーパーの亀田、日東といったメーカー品ではなく、総て個性品で古代米、黒米のもの、唐辛子の効いたものもある。360~500円といった価格帯である。
写真⑥ 豊富な煎餅の品揃え
 カリントウも230~300円のものが15アイテムもある。落花生も味付け品も含め、6アイテム以上。価格帯は380~450円。

 砂糖・塩といった必需な調味料には4尺ゴンドラ2本を当て、たっぷり並べているのも目を引く。また売れ筋のビールは多段の冷ケース12尺、日本酒はゴンドラ15尺、ワインも12尺である。「売れ筋については、スーパーに負けないスペースを」という意気込みが感じられるのだ。

写真⑦ 砂糖・塩のコーナーはゴンドラ8尺
 今の多くの直売所は、何を何時、どう売るか、その品揃えの個性化をどうするか・・・の発想がない。個性化に沿った仕入先の開拓という努力もしていない。食の駅の母体である株・ファームドゥは、むしろ地元のお多くの加工工場と連携して伸びてきただけに、品揃えの個性化がよく出来ている。これにより、季節品の調達もダイナミックで、スーパーを圧する魅力を創造している。

平成29年11月2日
前回は12月商戦を紹介・・・この1月前の11月の季節品等のアイテム数他を紹介しよう!

入口左サイドの大量陳列品は餅である。餅6アイテムに黄な粉5アイテムを添えた陳列。餅は800gが980円、1kgが698円、780円といったものも。

季節の野菜はダイコン13アイテムで赤ダイコンも2種。トマトが11、長ネギ13、サツマイモ21、ニンジン17アイテムと豊富。これらはスーパーの品揃えを圧倒している。スーパ―はせいぜい各2アイテムほどに過ぎない。群馬県の名物こんにゃくも、白滝を含め32アイテムもある。

上州牛ロースは100gが780円とか688円もあり、安さだけの勝負ではない。弁当類や海苔巻きも6尺×5本で16アイテムで、398円とか400円台で実に美しく美味なものが準備されている。

令和5年2月15日訪問時の姿

 出荷者明示の木板の数91名

. 季節野菜のアイテム数(一部)

 ハクサイ8、ネギ30コマツナ8、ホウレンソウ16、ウド5、ニンジン29,ダイコン12   有機野菜24(8尺×2=16尺)

Ⅱ.冷蔵・冷凍ケースの配置尺

 1.冷蔵関係  入口→店奥へ

中分類

小分類

尺数×台数

計間口

デザート

プリン、ゼリー、チーズケーキ、和菓子等

8尺×2.

20尺

惣菜

弁当、煮物       他に平台販売あり

8尺×1.

12尺

精肉

牛肉.・・・上州牛

8尺×1.

12尺

 

鶏肉

8尺×1.

8

 

豚肉

8尺×2.

16尺

 

ハム・ソーセージ

8尺×2.

20尺

鶏卵

タマゴ15アイテム

8尺×2.

16尺

漬物

           他に平台販売12尺

4尺×3.

12尺

味噌

 

4尺×1.

 4尺

納豆

 

4尺×1.

 4尺

豆腐

豆腐、油揚げ、がんも等

4尺×3.

12尺

こんにゃく

こんにやく、しらたき等 他に平台販売12尺

4尺他非冷台

 4尺

ゆで麵

うどん。そば、やきそば

4尺×3.

12尺

牛乳

牛乳、ヤクルト、バター、チーズ等

4尺×2.

 8尺

飲料

 

4尺×3.

12尺

ビール

 

4尺×3.

12尺

2.冷凍

塩干魚

平オープン

8尺×2.0

16

加工肉他

ハム・ソウセージ、惣菜    平オープン

6尺×2.

12尺


2023年3月3日金曜日

幸福度日本一の鳩山町の座は安泰か?

 

写真① 瀟洒な街並みの鳩山ニュータウン

・・・この「街の幸福度ランキング」調査は、大手建設業者の「大東建託」が調査を2019~21年に実施し、全国47都道府県1883市区町村に住む20歳以上の男女約52万人が回答した。「非常に幸福だと思う」から「非常に不幸だと思う」まで10段階で評価してもらい、50人以上から回答があった1237市区町村を対象に、平均点でランキングを作成したもの。鳩山町では78人の回答が集計され、それだけに信頼度の高いものと言える・・・

鳩山町は入間市や狭山市の中心部から国道408号を北上し約25kmのところに位置する。人口15,000人というから、入間市の10分の1ほどに過ぎない。高齢化や人口減少も進んでいる。それでいて、「幸福度日本一の町」になっている。鳩山町はなぜ日本一なのか?

1.居住者の同質性で幸福を再生産

鳩山町は、東武東上線の高坂駅から車で15分ほど、埼玉県のほぼ中央の位置にあり自然林の緑も多い丘陵地帯。だが「陸の孤島」と言われることもある。川に沿いに田があり、一段高いところは畑。広い耕地がない兼業農家地帯・・・農業経営体176のうち副業的経営体が78%。しかし周辺部の川越市や坂戸市など工業団地も多く、就業機会も多いため豊かな兼業農家の地区と見て良い。

こうした兼業農業地帯だが、1974年以降、丘陵地の一つに高級住宅といえる敷地50~60坪の瀟洒な鳩山ニュータウンの分譲が開始され、広大な戸建て団地(約3,300世帯)が形成された。そして高度成長期に生まれた豊かな中間層が、緑多い環境にあこがれ移り住んだ。鳩山町の人口は令和5年1月現在13,151人だが、鳩山ニュータウンの人口が6,725人で51.1%(世帯数では53.9%)、その他地域が48.9%で、ほぼ半々の状況にある。

ニュータウンの居住者もすでに50年前後過ぎ、多くは年金暮らしにはいっているが、豊かな年金暮らしをしている人(企業年金というプラスαあった時代に勤務)が多いと考えられる。そして「ゆったりとした敷地、緑濃き地区で、老後ものんびり生活をエンジョイしたい」という共通の夢を描いてきたはず。生活レベルと「環境への憧れ」の両面で同質性が高く、お互いを理解し合える立場にあり町会活動も活発で、「陸の孤島」という環境に負けないよう協力し合っていることが、幸福度の高さに通じるものと思う。

鳩山町には緑の濃い樹林地帯が多数あり、緑に囲まれた神社仏閣も23ほどあり、古代・中世等の史跡も7つと豊富。公園や景勝地も7ケ所、5つのゴルフ場も5つ、大学も2つ、地球観測センターもある。町が運営する貸農園(1区画100㎡で年6,000円)も142区画ある・・・老後の楽しさを探すのに不足はない。

豊かな兼業塗業地区と豊かな戸建て団地。幸福感というものは、生活レベルやライフスタイルに格差がないときにお互いを理解し合え、幸福感も生じるものである。一体感があれば、市町村や町会の活動にしても、改善方向が打ち出しやすい。仮に2つに分かれた母集団であったとしても、母集団が半々であれば改善策も「譲り合いの精神」で受け入れられやすく、良いと思うことを実行に移しやすい。実際、高齢化に負けず鳩山町は良い政策を次々と打ち出し、幸福感を再生産しているように思う。 

2.デマンドタクシーで足を確保

鳩山町は陸の孤島だが、実際には団地と高坂駅を結ぶ川越観光のバス便は、1時間に6便の時間帯もあり、1日72便もある。このため通勤・通学には大きな不便はない。だが、買い物の利便性では劣る。団地の中央部に小型の西友ストア(レジ4台、駐車場44台)、コンビのファミリーマートと約10店ほどの理髪店、美容室などの専門店があるが丘の頂上部に当たる。丘陵の裾野にスーパーのベイシア、他にJAの農産物直売所も2ケ所がある。町全体がいくつもの丘陵からなり、多くは坂道でつながり徒歩客には厳しい状況にある。 






写真⓶ ニュウータウン中心にある西友ストア




写真③ 西友前の商店街

10数店中6店にシャッター。心配になるところ。

このハンディーに対して思いやりの精神が働き、町内であればどれだけ乗っても200~600円の「鳩山町デマンドタクシー」が2009年から運行されてきた。町民が予約電話を掛けると、どこにでも来てくれる。AIが4台のタクシーの位置から迎車時間を瞬時に計算し、オペレーターが車を手配する。町外の病院などへの運行便もある。 

坂道が多ければ、交通事故も起きやすい。ここでも町と町民が一体となり、「交通事故ゼロの町」を高々と掲げ、2009年以来交通事故ゼロを達成もしている。この事故ゼロも安全・安心を保証し、幸福感を支えていると見る。 

3.健康長寿のため多種の努力

年をとっても元気で健康なことも、幸福度に通じるはず。このための町の努力も抜群である。鳩山町は2009年から、東京都健康長寿医療センターとの共同研究などにより、健康長寿の秘訣を「運動、栄養、社会参加」と分析し、健康寿命を延ばすための取り組み「鳩山モデル」を推進してきた。 

連携協定を結ぶ大東文化大スポーツ健康学部(埼玉県東松山市)が町民向けに筋力トレーニング教室を開き、女子栄養大(埼玉県坂戸市)が食生活改善のためのセミナーを開催。町民の有志が「健康づくりサポーターの会」を組織し、町内4カ所で健康教室を毎週開き、30~100人が集まって筋トレなどに継続して取り組んでいる。(町の資料引用)。 

この結果65才を基準とした余命の調査では、鳩山町男子は22.3才で埼玉県1位、女子は24.2才で20位(1~20位の差は微少・・・健康寿命では女子も2位。ちなみに男子は1位)。

4.子育て対策も優等生

  長寿化すれば、高齢化は当然進む。鳩山町の令和5年1月現在の65才以上の割合は、実に46.5%で、近々半数を超える。高齢者からしても子供が増え、子供の元気な姿や声を聴くことが、幸福感に通じる。鳩山町では子育てにも力を注ぎ、県内で最も早く「地域子育て応援タウン」に認定されてきた。 

私立の保育所も町内に二つあり、待機児童は2004年以来ゼロであり、2018年以降を見ると、入園希望者164~169人に対し、受け入れ可能数は202人と受け入れの余裕を持続している。このほか放課後に児童を預かる学童保育園も2ケ所あり、さらに6年生以下の病気やケガのお子さんを預かり、働くママを応援する施設が「ひばり保育園」というところに併設されている。ここには「ひばり子育て支援センター」「つどいの広場ぽっぽ」「子育て世代包括支援センターぴっぴ」といった施設もある。また地域全体で3ケ所の子育て支援の拠点もあり、妊婦や子育ての悩み事の相談やサポートし、子供を持つママさんたちの交流の場にもなっている。 

  子育てに対する経済的な支援も、また充実している。まず①国民健康保険の被保険者が出産する場合、42万円が支給される。②中学3年までの子供がけがや病気で診療を受けた場合、医療費は無料である。⓷生後3ケ月以内の赤ちゃんを持つ家庭は、保健師や管理栄養士、助産婦が訪問し、家族全員のケアーをしてくれる、④乳児検診、1才6ケ月検診、2歳児歯科検診、3才児検診も無料で実施している。 

5.町の発展策も充実―空き家対策や起業も

    ところで、「町が年々高齢化して行く」といった状態では、住民の幸福感は生まれない。高齢化の著しい鳩山ニュータウンの活性化のため、今日のニーズだけでなく将来のニーズを考え、基本計画を作成し様々な事業を展開している。2014年には閉店した日用品販売店舗の跡地を町が買い取り、鳩山町コミュニティ・マルシェを建設、次の5つの窓口活動が行われている。

   移住推進センター約80㎡(空き家バンク) 増えつつある、売りたい・貸したい空き家の登録をし、HPで宣伝し移住希望者の相談に乗る。現在だけでHPには10の空き家物件が紹介されている。

   ふくしプラザ約140㎡ 地域福祉活動、ボランティア活動、各種相談活動、地域見守り活動の拠点。無料で利用できる。

   まちおこしカフェ約110㎡ 地元での起業、地元振興に通じる各種取り組みを支援。地元や提携市町村の特産品の販売、これ等を原料とした飲食物の販売・提供を支援。

   シェア・オフィス約70㎡ 全部で8室あり、仕事や学習の場を提供し、物つくり等の起業を支援。1か月の継続利用も可能。

   研修室40㎡ 各種資源を活用した多世代の活躍を促すための、各種研修会を開催する場。

   その他約346㎡












写真④⑤ 数百点もの町民のオリジナル商品がカフェを取り囲む

 マルシェを訪ねると広いカフェがあり、この施設で開発された各種ケーキがずらり並び、客席のあちこちに1~4人組の客がくつろいだり会話を楽しんでいる。そして客席を取り囲み、地場の野菜の直売コーナーもあれば、各自の家で制作し持ち込まれた数百にも及ぶアクセサリー、バック、衣料等が所狭しと並んでいる。売れ行きの方はパットしないように思うが、趣味で始めたものを商品化し、起業に結びついていく入り口として貢献しているように思う。奥の福祉プラザの席には、地域の安全を守るボランティアの人が10数人も休憩していた。

6.兼業農家を支える農産物直売所

すでに触れてきたが、兼業農家中心の地区であるが、新たな農業参入にも力をいれている。それが「担い手農業者育成塾」である。原則として18歳以上60歳未満で基本的な農業知識を持ち、研修修了後に鳩山町内で就農する意思がある人を対象にした農業経営技術研修だ。2年間の研修中に有機農法による水稲・野菜などの種まき・育苗から収穫、出荷調整までを学べる。(市発表文書より) 

また鳩山町はトカイナカ(都会と田舎の交わる地区)であり、こうした立地は農産物販売所の適地でもある。消費者が来やすく、生産者としては市場ルートの大量出荷でなく、少量出荷がしやすい。早朝出荷すればよく、兼業体制でも乗り切れる。




写真⑥ JA埼玉中央の鳩山農産物販売所



写真⑦⑧ 町営の上熊井農産物販売所 

地元の南はずれにはJA埼玉中央の鳩山農産物販売所の鳩山支店がある。9:30~18:00時の営業、売り場面積200㎡、駐車50台。出荷者は80人程で、美味の会の加工品、うどん弁当、赤飯、田舎寿司など個性品が販売されている。地場産のお米も5キロ1,400円からと安く、精米してくれたもの購入してきた。 

いま一つはやや山手にある鳩山町上熊井農産物販売所で、愛称「ちょくま」である。町の条例で運営され、管理者は各地の異なるニーズを開発し、多数の企業を傘下に持つ株・グッドスタッフという会社。9;00~17時の営業で、60台の駐車。出荷者早く80人。特徴は売場スペース200㎡のほかに、農業の6次産業化の要請に沿うため、8~53㎡の加工場4部屋を持ち、利用料を払えば利用可能。加工だけするなら1時間700円、加工と直売所での販売をする場合は1時間500円。保管庫も豊富でこれも廉価に借りられる。外にも360㎡のイベント広場もあり、車1台6,000円を払えば、広場でイベント的な販売もできる。 

管理主体を担う株グッドスタッフは、様々なニーズにこたえる実務コンサルタント会社とも言え、人材派遣会社も含め数十の系列会社を持っている。運営は運営のプロに任せる・・・が町の方針のようだ。だから、運営もユニークである。買った品をその場で食べられるイートインの広いコーナーがある。

ニュータウン住民を支えるのがコミュニティ・マルシェなら、農業者を支えるのが農産物直売所だ。なぜなら、兼業農家は自家用の消費も考え、少量・多品種栽培をしている。市場出荷と異なり葉物でも10把、20把の出荷が可能。夕方収穫し夜や、早朝にパケージをしておけば、朝は直売所に行、前日の売れ残りを引き取り、新しい品の値札を作り決められた各自の陳列台もでき、大規模出荷の市場出荷よりも、小口の出荷ができる直売所が向いているからだ。

以上見てきた通り、鳩山町は町と町民が「こうしたい」と思うことを、次々と実践してきた。町の広報誌も4ケ月分を読ましてもらったが、2022年11月号では4ページにまたがり「交通事故継続日数5000日達成」の特集が組まれ、12月号では2ページの「鳩山町独自の支援事業」、2ページの「はとやま祭り」の特集、2023年1月号では5ページの「鳩山中学校生徒の紹介」の特集が、沢山の写真入りで紹介されている。町民全員が読みたくなる内容なのだ。皆が町の行方に関心を持ってこそ、思いやりの気持ちも生まれ、一体感による幸福感も増大する。私の住む入間市の広報誌が、連絡事項のオンパレードというのとは大違いである。ここらの違いを入間市は大いに反省しないと、市民の幸福感の増大は不可能である。

7.幸福度の未来にかげりも!

この鳩山町の幸福度にも、「かげり」がないとは言えない。幸福感を支えるものに主体的な経済要素(主に所得)があるが、それを取り巻く他動的な環境要素もある。大きく分けて①自然環境、②通学・通勤環境、③買い物環境であるが、①②は今後も変化が比較的に少ない部類だが、⓷は大きな変化が予想される。

高齢化すればするほど、毎日の食に楽しみを求め、生鮮好みの小刻みな買い物もする。ニュータウンについては、食料品や日用雑貨に強い「頼れるショッピングセンター」と言えるものがない。西友は売場面積580㎡、レジ4台、駐車場44台の小型のスーパー。そのうえ丘の頂上部にあり、徒歩や自転車での買い物が困難なエリアが多い。ために、これまでは車で2~3キロほど先の超大型のスーパーであるベイシアや、坂戸方面のスーパーに車で流れる人が多かった。このため人口減少もあって(17年間で27%減)、西友の向かい側にある10数軒の専門商店街も斜陽化野の一途をたどってきた(6軒はシャターを閉めている)。

ニュータウンのばあい、宅地分譲が開始されて以来すでに50年。40才以上で家を建てた人も今では80才以上。30才以上で建てた人でもすでに70才以上。運転免許の保有率となると、全国平均の話だが80才以上の男子が45.6%、女子となると5.5%だ。これは50~60代の男子の保有率約95.0%、女子の保有率約64.8%の各1/2位下、1/11以下という数字である。今後、買い物に不便な家庭が急増してしまう。事実、ニュータウンのわずか数人に聞いただけだが、「西友の存続を心から願う」「野菜他生鮮品の良いものを求め、コモディ・イイダなど他所に流出しているが、車に乗れなくなればどうにもならない」と不安をはっきりもらしていた。

私は50年近くスーパー関係のコンサルタントをし、20都府県の計350地区でスーパーの出店調査もしてきた。東京八王子の丘陵地帯に林立した古い高層団地地区では、今から25年以上前に高齢化による消費の減少でスーパーの撤退が起き、「どうするか」と心配で一杯の地区が多数あった。鳩山町も「令和6~10年問題」ともいうべき高齢化問題が深刻になる。いま65才以上の高齢者の割合は、すでに人口全体の46.%に達している(令和5年3月1日)。5年度の末には50%前後になる。

配達主体の生協もコープ未来、パルコープ、生活クラブ生協等と複数ある。この生協を併用するのも一法である。しかし青果・鮮魚・精肉・惣菜といった生鮮4品は、品目の選択幅が狭く、かつ「生きのよさ」を得るのは難しい。とすると西友ストアーに生鮮の強化をお願いし、同時に生鮮主体の移動販売や宅配の機能まで担当してもらい、移動販売車や宅配のバイクは町が保有し、リース形式にして全町を対象に運行、収益の上げやすい体質の店舗を作るといった創造性が求められる。

ご意見があれば御寄せください。本欄に追加掲載をしても良いのであれば、

そのように書いてください。メール: jkondou@biscuit.ocn.ne.jp        近藤


2023年1月23日月曜日

しもやけにキンカン・・・一塗りで完治!!

 


 キンカン=金冠は柑橘系の植物。この金冠由来の成分からなる「キンカン」という名の薬

が株式会社金冠堂から発売されている。主なものは100ml、50ml、20ml等の瓶の

塗り薬だ。 


その薬効については「虫刺され、かゆみ、肩コリ、腰通、打撲、捻挫」となっているが、足の指のしもやけにも目覚ましい効果がある。私ども夫婦もともに1ケ月前までは、足先のしもやけで痛いしかゆいし、夜すぐには眠れない状態だった。ところが、肩こりのため町医者でもらっていたキンカン(薬の)を、患部に塗ったところ、妻は1夜で、私は3夜ほどですっかり痛みもかゆみも消えた。 

 あらためてキンカン成分の効用についネットで検索すると。「血行促進」とも書かれている。「指先などの毛細血管は普通より細く、血行障害になりやすい」とあり。血行を促進するキンカンが効くのは当然と言える。このことを金冠堂さんの方で知っているかどうかだ。 

 気温が4~6度以下に下がると、血行障害がおこるとされる。このため、足の指を温める5本指の靴下などもあるが、あたためれば布団の中が温まると汗もかく。布団の裾から摘めてい空気が侵入すると、細かい水滴となり冷えを促進してしまいかねない。妻はこのことから、キンカンを使う以前から夜は裸足になって寝ていた。それでも汗かきのため、延々としもやけは続いていたのだ。これが一発で完治。キンカン様様である。お試しあれ。

2022年12月28日水曜日

公園を多様性に配慮した施設に!

  

   長野県で元・大學教授による執拗な「うるさい」という苦情で、公園が閉鎖された。この顛末は末尾に紹介するが、人間に限らず動物はコミュニケーションや自己表現のため声を発するもの。広い空間であれば、開放感や伝達のため声は自然と高くなる。自身が子供だった時代を考えれば、「声がうるさい」と言えないはず。声は音の1つだが、道路や鉄道、學校、音を出す工場の脇に居を構えた人は絶えず騒音になやまされていて逃げ場がない。太古の社会と異なり、文明社会ではお互い少々の音にたいして我慢を強いられるものだ・・・静寂をもとめられる睡眠時間は別である。 

 少子高齢化のため、住宅地最寄りの公園は、子供の声も聞こえないくらい、利用者が少ない場合がむしろ多い。利用者が少ないと、犯罪も増えやすく、安心して子供だけ公園に送り出せなくなる。このため、公園を人の集まりやすく、にぎやかな場にしていく努力が求められているのではないか。 

公園には多様な目的がある・・・①「子供さんの遊び場」と限定した考えは、むしろ辞めるべきで、②若いママさんの公園デビュウの場、③若者のデートの場、④勤労世代が食事をしたり一休みする場、⑤高齢者が健康のため散歩や体操したり、対話を交わす場、さらには⑥世代を越え緑の環境を享受する場、⑦災害時の避難の場・・・といった側面も含め、「全世代利用型」を目標とし、利用者をいかに増やすかを考えるべきである。そして、一日様々な人が出入りし、たくさんの目が働ければ、それだけ子どもさんも若いママさんたちも安心して集える。 

写真①遊具もモダンになっていますが、モダンさより全体の機能強化を!










写真②⓷ 緑町中央公園の花のボランティア募集の花壇。懇談できる日陰の小屋

 新所沢の緑町中央公園は広いタイプの公園だが、常時「花壇の手入をするボランティアの募集」がされ、奥行3.6×100mほどの花壇があり公募したボランチアが管理に当たっている。花壇の近くの日当たりには3×3mの木の腰掛台があり、さらに木陰に6~8人が座れる木のテーブルと椅子もある。そして花壇の管理に当たるボランティアの人を中心、中・高齢者が4~5人以上も寄り雑談しいる。10m四方はあると思われるコンクリートのミニ広場では15~20人もの人が太極拳の練習もしている。インコや烏骨鶏が変われた鳥小屋もあり、花壇だけでなく鳥を見に来る人もいる。これらのゾーンと隣接し、白の鉄製の柵で囲まれた砂場があり、このほかブランコ、滑り台など遊具がいくつかある。別途、コンサートも可能な広場もある。幼児~老人まで全世代が集える要素を持っている。 

どこの公園にも4人掛けほどのベンチはあるが、横並びでは3~8人と言った対話はできない。緑町中央公園のように、真ん中に机を挟み対話のしやすいベンチの配置もぜひ取り入れるべきでしょう。

同じ所沢で1,650㎡ほどの小公園では、1段上がったところに砂場、ブランコ、滑り台などの幼児用遊具が集められ、一段下がった80%ほどのところが広場になり、子供さんが柔らかいボールを投げ、これをママさんが打つ・・・という光景も。また片隅にあるバスケットのゴールに、一人黙々と投げ入れる中学生の練習風景も見てきた。幼児や小学生が遊ぶ公園で、硬いボールの野球をしたり、ボスケットの試合をしたりするのは禁止すべきだが、あれもこれもダメ・・・の禁止規定の多い公園にしてはいけない。バスケットのボール入れだけなら25㎡もあれば練習はできるし、1ホールだけのゲートボールの練習場も設置できる。これから流行るだろうボッチャなどの球技も狭い場所で可能なはず。これらをすれば公園の利用層は増える。 

 













写真④⑤ バスケットの練習用のゴール・・・1人で楽しめる。団地の公園でカードゲームに興じる中学生をみたことも。

高齢化社会という背景も考え、公園の全世代利用を促すことがたいせつなのではないか。私は分譲団地の公園ゾーンに接した棟に住んでいる。朝草むしりに出ると、遊具コーナーと離れたコンクリートの広場では、毎日ある高齢者が1人黙々と体操をしている。平日の放課後や土日には小・中学生が5人、10人と来てコンクリートの上でカード遊びをしたりスケボーもする。10mほどの四角に囲まれた小砂利のエリアがあり、ここを舞台にドッジボールを10人以上で楽しんでいることもある。砂利が枠外にとびちるが、これを枠内に箒で戻すのが私のささやかな仕事でもある。そして「うるさい」と感じたことは1回もない。 

公園の利用法については、「あれもこれもだめ」ではなく、「こんなことはできないか」と逆に考え、多くのひとに喜ばれる工夫をすることが大切だと思う。


長野県で起きた公園閉鎖の顛末(公表記事)

長野駅から車で10分ほどの住宅地に、問題の青木島遊園地はある。青木島小学校、青木島保育園、青木島児童センターに囲まれた場所にある青木島遊園地は2004年に地区住民の要望を受け、農地だった場所を公園として整備した。長野市の公園緑地課が管轄となって公園を整備し、隣接する青木島児童センターや地域ボランティアによって雑草駆除などの管理を行なってきた。青木島児童センターの責任者はこう話す。 「児童センターは青木島遊園地ができたのと同時期に設立されました。保護者が就労していて自宅に不在の小学12年生を下校時間から保護者の仕事が終わるまでここで預かっています」  ところが公園ができてからしばらくして、公園付近に自宅があるひとりの男性から児童センターに苦情が入る。国立大学の教授(当時)を務めていたこの男性は、 「子供を迎えに来る保護者の車のエンジン音がうるさい」と主張したという。児童センターの関係者は言う。 「児童センターはこれを受け、駐車場に面した児童センターのガラスに、エンジンをかけっぱなしにしないよう張り紙をするなど対応しました。それでも『車のエンジン音がうるさい』という男性からの苦情の声は、変わらず児童センターや市の公園緑地課に寄せられました。市の公園緑地課はさらにそれを受けて、男性の自宅前にあった公園の入口を移動させ、自宅に近い場所で遊ばせないように植樹して子供の遊び場を限定、雲梯の位置も男性宅から遠い位置へと移動させるなど、さまざまな配慮をしました」  教授だった男性は昨年3月に国立大学を退職し、名誉教授となった。すると程なくして、今度は青木島児童センターに「子供の声がうるさい」と男性から注意があったという。児童センターの責任者が説明する。 「遊ばせ方を考えなさいという話でした。小学校低学年に、静かに遊ばせるというのは困難ですので、現在は屋内で遊ばせるようにし、外での遊びは小学校のグラウンドを放課後に借りるという形で対応することを考えています」  公園に隣接する住宅に住み、男性とも面識のある住民は困惑気味にこう話す。 「子供の声はしますが、それは夕方まででそれほど気になりません。男性は教授だからといって偉そうにするわけでもないし、地域の集まりにもちゃんと参加していました。酒席でも普通に話す人で、特に神経質な性格という感じもありません。威圧されるような感じもない。ただ教育者という立場なのに、なぜ子供に対して寛容な目で見られないのでしょうか……」   (この閉鎖された公園については、再開を願う署名運動もやられ、多数の署名が集まったようだ)




2022年12月9日金曜日

入間市「 野田」については250年前の地図―137世帯

                 

写真:わずかに黄色く見えるのが田んぼ。上方の中央が、最も広い谷田の泉を水源とした

 昔の水田部。水田には無数の上田、中田、下田、下下田の文字が書かれている。


  野田という名は、南北朝時代(1336~1392年)からあったそうで、武蔵七党の円党に属する野田氏が開拓した土地だから、その名がある。 

仏子エリア全体の古地図にはまだ接していないが、入間川北側の野田については、明和4年11月(1767年・・・今から255年前)に記された「野田村絵図」という古地図が西武図書館に保存されている。ほぼ、今の野田のエリアに近いと思われ、谷田の泉の南西部に楕円形の、そして円照寺の北部にはおしゃもじ型や、東西に延びる細長い田んぼが見られる。全体の面積の20%以上は田んぼだったのでは。 

田んぼには必ず上田、中田、下田、下下田と4区分の字が無数に記されている。これは、田の年貢取り立てのための生産性(収量)の差を現わすようで、この地図は、地元領主が年貢取り立てのために描かしたものと思われる。畑にも上畑、中畑、下畑の文字が書かれている。

当時の人家も1戸ごとにマーク的に描かれており、私の計算だと137戸になる。現在の大字・野田は2022年11月現在4,203世帯であり、30倍も戸数がふえたことになり、明治以降~高度成長期に急速に住宅地として拡大してきたと言える。 

住宅地の中の「おしゃもじ田」のところも、2~3年前はかつて田があったことを思わせる底地だった。円照寺以北の水田は、入間川から水を引くのでなく、谷田の泉近くの田のように、段丘の湧き水に支えられていたはずである。谷田の泉=「下池」の西方向にもう一つ「中池」というため池もあり、田の水源になっていたため、谷田の水田といわれるものが、水田としては最も広く描かれている。他の水田は飯能側から流れこんだ川沿いに細長く東西に延びる田がほとんどで狭い。。


谷田の泉と周辺.







写真:上は「下池」と言われる

谷田の泉を支えるため池

中は「谷田の泉」の説明板・・・詳しく非常に参考になる。

下は昔、泉につながる水田だった低地…驚き!水田が現存した!!

      小学生さん等のための実験田か?刈り残しのイネ株ー野田最後の田!

 現在の谷田の泉は、段丘の下部からわずかな水を噴き出しているにすぎないのか、土手で囲んだ下池というため池は水量があるものの、よどんで流は感じられない。スズメバチの巣が付近にあるため「注意」の紙がはられている。人影が少ないのはこのためか。南手には昔水田だった面影のある低地が広がり、水を流す水路が周囲を囲んでいて、一部に刈り後のイネ株が。

野田の歴史 2023・11・19 
 西武地区わが街研究会の資料によれば・・・正保(1644~47)田園簿によれば、野田村は高麗郡加治領に属し、水田102石、畑138石で、当時代官の支配地だった。1石が1人1年の消費量とされるから、240人くらいの集落だったことになる。正徳元年(1711)に川越藩領となり、享保19年(1734)には460石余で、水田ふ9帖反余、畑は84趙反余である。享保改革では村の北部(今の新光か?)が開発されたが、地質が悪く、冬季に北風が強く土壌を舞い上げ、麦作がままならず、以後長期にわたって苦しめられたとある。

2022年11月27日日曜日

新田次郎さん(故)と福井県の旅

 1.名刺の裏に流れる字体で書いたもの

  JA系雑誌社「家の光協会」の編集部に勤務していた昭和38年のことだ。正月休みに作家の新田次郎さんと福井県の旅に出た。当時私は27才、新田さんは53才ほど。夜行列車の車中泊を含め4泊3日の旅である。雑誌「家の光」(当時月180万部に近づきつつあり、日本一の部数)の企画ではなく、JAマンや農村エリート向けの「地上」誌(15万部?)の企画だった。

地元出身の有名人10人前後に、県内の3名所を選んでもらい、そこを作家が旅し紀行文を書いてもらう・・・というものだった。福井県で選ばれたのが①三方五湖、②永平寺、③東尋坊+芦原温泉。推薦者の中には俳優の宇野重吉氏、作家の水上勉氏、詩人の西城八十氏、主婦連合会の奥むめお氏、元農林次官の小倉武一氏などが含まれていた(すでに故人ばかり)。50年以上前のことで、改めて当時の「地上」38年4月号のコピーを家の光からいただき、確認できたことである。

下記の短歌は、東尋坊と芦原温泉を訪ねた際、翌朝旅館を出る前に新田さんが即興で詠んだ短歌である。当方の名刺の裏にすらすらと流れる字体で書いてくれた。小さな額に入れ、地元の喫茶店に一時展示したものの、せいぜい30人ほどの目に触れたに過ぎない。

尋ね来し 芦原のお湯に 咲く花の 
    黒き衣の やさしかりけり              昭和三十八年一月四

「黒き衣」とは、3日の夕食時に招いた40代くらい?の芸子さんのことである。芸子さんは「芦原温泉の華」であり、「心温まる接待をしてくれた」と、感謝の気持ちを表したシンプルなものと思う。だが、新田さん自身の「やさしさ」が存分に詠まれている。ネットを見ると、新田さんは辞世の句として「春風や 次郎の夢は まだつづく」が出てくるものの、俳句や短歌集というものは見当たらない。しかし几帳面な方なので、手帳などに沢山の俳句や短歌を書き記したのではないか。ともかく新田さんは世話になった人への配慮が、特に行き届いた人である。原稿を貰いに当時の気象庁に行くと、修正の入った下書き原稿をくれた。どこの雑誌の担当者に対しても、同じサービスをしたものと信じる。

2.なぜ正月休みの旅になったか
    恥ずかしいことだが、最近になりやっと新田さんの「富士山頂」(昭和42年9月発表-別冊文藝春秋)を読んだ。ここには克明に昭和37~39年当時の新田さん自身が描かれている。富士山頂上に世界最大出力の台風観測のレーダーを建設する国家プロジェックは、27年に予算が通り(3年越し)、38年、39年の2年間で設置工事を完了させることになった。37年に新田さんは測器課長に昇進していたが、富士観測所に勤務経験もあり、無線のエキスパートである氏は、予算作成から設置完成までの中心人物だった。

 すでに処女作の「強力伝」を昭和30年に発表し「役人作家」として気象庁内ほか広く認められる存在だった。新田さんの偉さは2足の草鞋を履きながらも、「公務に影響が出るような作家作業であってはならない」と固く自己規制していたことだ。このことは「正月3賀日の取材ならOK」ということにもよく表れている。富士山の気象条件は日本一過酷で、工事日程は夏場の限られた日のみ・・・38年の正月休みは、レーダー建設作業を前にしたしばしの休戦期間だったはず。

農村雑誌の編集部といっても、「家の光」の編集部は大所帯だったが、姉妹誌の「地上」は部数が少なく、編集部員は7人ほどに過ぎない。部員の多くは3Sと呼ばれる小説、シネマ、スポーツ等のほか一般的な政治・経済、家庭問題も担当するものが4人ほど、農業技術+経営を担当するもの2人、その上に編集長。農工大学農学部出の私は、いやでも後者の担当。先輩記者が忙しいときに代理で作家の自宅に原稿を取りに行く程度。故・水上勉さん宅に原稿をもらいに2回ほど行ったことがある。

「誰か、新田次郎さんと一緒に福井に行けないか」と、編集長が募集をかけた。先輩記者は妻子もいるため正月は家でゆっくりしたい。当方は結婚後まだ数か月で、子供も生まれてなかった。「それじゃ、私が行きます」と手をあげたものの、文学青年’に程遠く、新田次郎さんの本をまだ1冊も読んでいなかった。

このため、急ぎ氏の出世作の「強力伝」1冊だけを読み、「どうにかなるだろう」と当日を迎えた。昭和27年12月31日のことである。私の家は東京の荻窪、新田さんの家は中央線で西に2つ目の吉祥寺。同じ中央線族である。夕方4時ごろに家を出て、吉祥寺駅に行き、確か五日市街道のケヤキ並木を超えた場所の新田邸を訪ねた。奥さんが座敷に迎え入れてくれ、一緒にお茶菓子をつまみながら1時間ほど雑談。

奥さんが席を立ったすきに、新田さんは「じつは妻が先に作家になり、報道関係者が押し掛け、これに発奮して私も小説家になる決心をした」と耳打ちしてくれた。奥さんの藤原ていさんの「流れる星は生きている」についても、本来知っているべきだが、私にとっては初耳だった。

6時ころに奥さんに送られて家を後にしたが、このとき新田さんのいで立ちが印象的だった。私は1着しかない冬の背広にオーバー、そして靴も1つしかない並みの革靴。持ち物はボストンバックと会社所有のカメラ。新田さんは鳥打帽に登山向きの厚手のコート。その下にジャケットにチョッキ、ズボン。足のほうは頑丈な登山靴であった。

新田さんは山岳小説家と言われ、気象学者でもある。冬の北陸地方、そして軽い山登り(三方五胡での)を頭に描き、すべてを整えたようだ。私のほうは、気象や地形への配慮が全くない馬鹿げた服装だった。
<写真>三方五湖を眺める故・新田次郎さん(地上誌の原稿より)

3.三方五湖を眼下に丘下り
 東京駅に出て、寝台車でゆっくり米原に行き、敦賀―三方五胡のある三方駅に着き、このあとバスで海山という部落まで。着いたのは元旦の朝8時くらいだったはず。三方五胡の見える梅丈岳(バイジョウガタケ=395m)に楽に行くにはタクシーに限る。だが元旦とあってタクシーなど1台も見当たらない。とほうに暮れていたとき、小型トラックに乗った地元農家の50代の方が声をかけてくれた。「お困りのようですね。どこまでですか」「どうしても梅丈岳に行きたいのです」「それじゃ送りますよ」。この好意にすがることとした。

男性は新田さんだとは知らなかったようだが、名を紹介し目的も告げた。雪が少なく、なんなく頂上部に連れていってくれた。感謝の印を渡そうとしたが断られた。心からお礼を述べ、握手をして別れることとなった。新年早々から純朴な農家の方に会え、農村記者とすれば「好スタートが切れた」と喜んだ。

頂上は晴れ渡り、薄く雪がつもり輝いていた。一部の雪は解けて土が出ていた。眼下には五湖が東から日向湖、久久子湖、管湖、水月湖、三方湖と連なっていた。ここからは、新田さんの紀行文そのまま紹介しよう。

「五湖は・・・一湖一湖が、それぞれの個性を象徴するような形を持っていた。日本海の色に比べると、五湖の色調は沈んで見えた。緑色よりもむしろ青くさびた色だった。雲が動くと光の刺し方が変わった。雲間に洩れる光が湖の上をまともに照らすと、湖はサファイアのように輝きだし、光が雲にかくされると、冬のつめたい表情にかわった。私はこのすばらしい景観に打たれた。これほど美しい場所が日本にあったことを知らなかった自分を恥じた。・・・この絶景を見たあとでなにがあろうか、・・・私はこの足で東京に帰りたかった」 (・・・は一部省略箇所)。 写真はいただいた下書き原稿  


下の海山部落までは歩くしかなかった。天気が良く、歩けば厚着のため汗が出る。私は脱いだオーバーを丸めたものとバッグを、持っていた手ぬぐいで結び、振り分けにして肩に乗せ、山を下ることにした。浅い雪が日光で解け、べたべたしており革靴では滑る。両手を自由に使えないと事故につながる・・・と考えたからだ。新田さんが安定した足取りで下るのを、後から私がヨタヨタと追いかける。途中、何度も転びかけることもあり、厳しい旅の初日になった。このため「福井3ケ所巡り」と言っても、三方五湖のみが新田さん同様に、一番の思い出となった。新田さんも私も、ともに永平寺や東尋坊+芦原温泉は再度の訪問で、新鮮味をかんじなかったことも理由だろう。

 手帳に丹念にメモをする几帳面さ、そして接する人すべてにやさしい・・・こんな新田さんに惚れぼれした2泊3日の旅だった。新田さんは小説家に専念するため昭和41年に気象庁を辞められたが、私もまた新田さんから学ぶものがあり、志を抱き昭和40年に29才の若さで「家の光」を辞めた。