後半 高校中退(息子)でも年商100億円の社長に
1.甘やかしと過干渉は厳禁
大学を出ても就職しない、家に閉じこもる、1流企業に入ってもすぐやめる、恋愛できない、結婚してもすぐ離婚する・・・こうした人が急増している。これでは親・子・孫と3代にわたる幸せなファミリー像は描けない。待っているのは家族崩壊の悲劇である。
親の甘やかしや過度の干渉による血縁者殺しも増えている。引きこもりの子の暴力を心配した元・高級官僚が、子殺しをした悲惨な事件も起きた。近年、殺人事件は減少傾向にあるが、親族間の殺人事件は増加の一途をたどり、2013年には殺人事件全体の53.5%を占めるまでになっている。家族間の絆の崩壊が大きく関係していると思う。優等生で一流高校・大学を卒業し、親の残したマンションに住み、マンション全体の賃貸料で優雅な生活をしながら、高級外車で高速道路であおり運転を何回となく繰り返した輩もいる。
「ヘリコプター・ペアレント」という言葉がある。親がヘリコプターに乗り、子供のすぐ上空をホバリング(旋回)していて、子供が不安そうに首をかしげたり、周囲の動きについていけないと見るや、すぐ上空から降りて来て、アドバイスしたり、叱ったり、周囲の人に文句を言ったりする親のことだ。
ヘリコプター・ペアレントは、子供を1流大学を卒業させ、1流企業に就職させたいとの夢を持ち、教育熱心な親が多い。「勉強しろ」「友達と遊びすぎる」「友達を選べ」「スマホを見る時間が多すぎる」と、いろいろと制限を加えもする。親の思い通りになって欲しいものだから、すぐ物や金を与えたり、塾だ、お稽古事だと金銭的な甘やかしもする。
故・樹木希林さんも「120の遺言」のなかで、「こうしちゃいけない、ああしちゃいけないというものの中からは、人は育たない気がする」と、過干渉をいましめている。小学生、中学生、高校生と分けた悩みランキング調査がしばしばネットに出てくるが(調査機関不明)、高校生の悩みランキングの2位は「親の干渉が激しくて困る」である。
干渉が多ければ、当然自分で考え行動する機会がなくなる。当然ながら自立心や自立力(経済力を伴う力)が失われる。仮に一流会社にはいっても、上司から難問を与えられても自分で判断し挑戦する能力がないからウツになってしまう。あげくの果ては「やってられない」と、早々の退社となる。新規就労した人の3人に1人は3年以内に離職している。離職率33%のうち10%くらいは再度大学の研究室や専門分野の学校に通う人のようだが、残りの20%強は仕事への挑戦を放棄した人と思える。だから他所に勤めても長続きせず、非正規の就職先に甘んじ結婚もできなくなる。その大半の責任は、親の過干渉による自立力の欠如に原因があるのではないかと。
2.人格形成と個性と半自由放任主義
1流大学に入るー1流企業に入る・・・は、経済的意味合いを含む自立力をつける1側面に過ぎない。豊かな人格形成が出来てなければどこかで必ず失敗する。私は真の自立力の源泉は第1は人格形成だと思う。豊かな人格は簡単に表現できないが、「真面目さ、勤勉さ、努力志向の強さ、探求心の強さ、協調性、他人への思いやり」など、生きていくための手本となる姿だと思う。だからといって学校で学ぶ「道徳」と同一とは思わないし、すべての要素が100%満たされる必要もない。多くの人たちの中で善にも悪に接し、小さな成功や失敗も沢山経験し、ダイナミックな対応力を持ったバイタリティあふれた人格形成が必要だと思う。
人格的に優れた要素を持っていれば、仮に1流大学を出でなくても、人から評価され尊敬され、押し上げられ職場のリーダーにもなれ、起業もしやすく企業の代表者にもなれる。こうした例は皆さんも沢山見ているはずです。松下幸之助や本田宗一郎・・・もそのほんの1例だ。
自立力の第2の源泉は個性だと思う。個性を磨けば特定の場面で評価され押し上げられる。数々のアイデア、特許、ノーベル賞、芸能関係の賞、オリンピックのメタル・・・すべて個性の賜物である。親は子供との距離をとり、客観的にじっくり子を観察し、個性を見出し、それを磨くサポートをする。個性が発揮できれば自信につながり、自立力が高まる。個性は特定学科の強さ弱さもあるが、人格で触れた真面目さ、勤勉さ他の要素の強さ弱さもある。
ヘリコプター・ペアレントとに代わって、推し進めるべきは、子供とある程度距離を取った半自由放任主義だと思う。「受験競争や就職競争も激しい今日、そんなことではおちこぼれになってしまう」と危惧する人が多いと思う。しかし、冒頭に触れた過干渉や甘やかしによて生じた家庭内の悲劇を考えるなら、受験本位の勉強や「過干渉型子育て法」こそ改めるべきだと思う。
望ましい姿は「あれしろ」「これしろ」と干渉がましく言うのでなく、「子は親の背を見て育つ」にならい、手本となる行動を親自身が見せることである。それには親も負けずに日々勉強しなければだめだ。子供と同じようにスマホやSNSができることを意味しない。新聞も読み、文学書も読み、各種の趣味も深め、夫婦の愛も深め、真摯に仕事に取組み、「親父もお袋も良くやっているな」と思われる必要がある。そうでなければ、子から見ると「愚父」「愚母」扱いにされ、注意すればするほど心は離れてしまう。
動物でも牛や馬は広い牧場に子畜のころから放牧し、子は子どうしでじゃれ合い、走り合い足腰を鍛え、草を存分に食べさせ胃袋を鍛える。そうすれば成畜になってから濃厚飼料もよく食べ、よく肉をつけ、よく走り、よく乳を出すようになるとされる。
子育ての半自由放任主義とは、放牧の概念に近い。牛や馬の親はゆっくり草をはみ、遠くから子畜の動きを眺め、子が乳を飲みにくれば体中をなめ回し、愛情を最大限に表現する。子育てにおいてもべったりせず、子と間をとりつつ、親の愛情が十分伝わるよう、要所要所で深く愛情を表現する必要がある。「お母さんも、美味しくて健康にもよい料理を作るから勉強してね」と言えるようにする・・・料理も最大の愛情表現の場だ。さらに怪我や病気、重要な悩み事、進学、就職、恋愛、結婚という人生を左右しかねない節目に当たり、集中的に愛情を示せば、子は親を愛し家庭崩壊など起きない。
これから後は、我が家の3代にわたる「半自由放任主義」の歴史である。まだ書き終えていないが、最後の項目は私の事業失敗の影響もあり、高校中退の我が子が海外を雄飛した後、東南アジアの某国で代表者として100店舗、年商100億円の飲食店チェーンを創りあげた出世物語である。是非最後までお付き合いを!
3.我が母は2人の子供と父を失う
生意気なことを書いてきたが、実は父は教育者で、岡山の小学校の校長を経て「教育者の教育をしたい」と、20歳以上年下の母(父にとって3代めの妻のため)と大阪の出販社で修行をし、その後東京に出て来て新宿区牛込→千代田区神田で「文教書院」という出販社を営業し、小川未明・浜田広介の童話集、国語・算数・理科・音楽・図工等の学年別指導書ほか「教育論叢」という月刊誌も発行してきた。 唯一残る「教育論叢」は昭和15年12月号で、第266号・・・これから計算すると、創業は大正8年となる。戦火厳しくなる昭和19年に廃社しているので、現にある「文教書院」は、戦後誕生した別の出版社である。
現在なを「父母が出版した本」を探す人がおり、ネットで検索すると「文教書院、発行者・近藤弥寿太」の名は5回ほど出てくる。出版と言えば編集企画、執筆者選定、執筆依頼、装丁依頼、印刷依頼、原稿の校正、宣伝、経理などの多岐にわたる業務があるが、これを父母ほか4人ほどの従業員でこなすため、それはそれは多忙。母は20才ほどと若くして結婚(先妻の姉が死亡し、後妻にはいる)、38才までに男5人、女1人の子を設けた。母は白鷺城で有名な姫路市育ちで3人姉妹の末娘。しかし姫路女子高等中学の一期生で学歴を積み、かつ気も強く姉たちをいじめたとも言われた。
父は学者肌で、多くの学者=執筆者を発掘する必要があり沢山の本を読み、時に専門性の高い校正の仕事をこなし多忙。色紙に「下渡(酒が飲めない)だとて、馬鹿にするない金輪際、酔うたためしはありはしないぞ」と記したくらいで、客が来ると母が盃を受け接待を担った。このほか母は原稿取りや、印刷の依頼、支払、集金なども手助けしたようで、やはり超多忙。このため子供たちに「勉強しろ」という暇もない。だが、昔は教育者の子弟は「親の顔をつぶしてはならぬ」と自然と勉強したもの。「教育者と頻繁に会いたい」と父が牛込から神田神保町近くの一つ橋にあった教育会館隣りに出販社を移した後、上2人の兄は九段の旧制中学に通っていた。通信簿には乙が1~2あるのみで後は総て甲の優等生。
母は忙しさのため自由放任であり、2人はともに「文武両道」が奨励される時代。どちらがどうだったか不明だが、部活動として剣道、機械体操を選び励んでいた。模範中学のため見学者が来るたびに模範演技もやらされ、体の疲れも蓄積。かつ神田地区は当時から床下までコンクリート。犬に土を踏ませるため靖国神社まで行く始末。ために空気は汚れ、しらぬ間に2人とも結核に感染し、旧制中学生にして死亡したのである。父母とも岡山と兵庫のきれいな空気のなかで生き、「空気の汚れ」に無関心。また健康を支える努力も欠いていたのだと思う。やはり自由放任ではなく、環境、健康、睡眠、食事には十分気を遣う「半自由放任」が必要なのだ。「成績が良ければ、それでよし」との考えも否定されるべきである。
母はこのことに初めて気が付いたようだ。私が生まれて間もなく二男が亡くなった直後に、「これ以上、神田に住んで子を失いたくない」と、強い意志に駆り立てられ、計算に無頓着な父に代わって蓄積した金をはたき、急遽郊外地だった杉並区荻窪の建て売りの6Kを買い、住宅だけ引っ越したのだ。荻窪を選んだのは、当時は荻窪発の路面電車が神保町を通り銀座まで走り、乗り換えなしに通えたからだろう。実はこの判断は遅すぎ、私が3才のとき父までも結核で失った。母は府中市の多摩墓地に、周囲の墓地の4倍の4坪ある墓を作った。この資金も、自身が無尽講で得たものだ。
母は父の死後も、律儀な番頭の村上政吉さんという方に支えられ女社長を5年ほどつとめたが、いたずらっ子の私がメンコやベーゴマ他で良く怪我をすると、心境の変化で会社を休んで、阿佐ヶ谷駅近くの篠原病院に連れていった。郊外地への引っ越しは正解で兄2人、姉1人を含む4人は、残らず成人し就職まで進んだ。3男は家から5分の私立の中学、4男はバスもいれ15分ほどの不良学校と言われた私立中学。恐らく兄2人は自身で、「母に心配させないよう体力的にも負担のかからない、家から近いことを優先して選んだ」ように思う。当時は公立の旧制中学は極めて少なかったこともある。
兄妹3人は、唯一の洋室である6畳に3人机をなら並べ、親に頼らず勉強し合ったようだ。3男はテニスをしながら旧制・姫路高校に進み、戦後東京工業大学応用科学・同5年制の大学院卒、4男は不良中学と呼ばれる中学で古代の土器掘りも楽しみながら、5年でなく飛び級の4年で戦中に旧制浦和高校に進み、戦後東京大学の電気系に進んだ。姉は戦中に集団疎開から帰京し、「空襲に合いにくい」との母の配慮か?ミッション系の立教女学院にはいった。母の偉さは、戦中であり空襲に合っても困らないよう、知人や親せきの住む姫路高校・浦和高校や、空襲に合わないだろう立教女学院を選ばしたことである。そっと子供の身の安全を選ぶ姿勢を貫いた。
4.母は「人のために尽くす」が身についた人
母は子供たちに最高教育を受けさせるに足る貯金を残し、昭和19年に出版業を撤退、当時配給制であった紙の権利を講談社に譲り、番頭だった大恩人・村上氏を講談社に引き取ってもらった。村上氏は疎開先の札幌で「札幌講談社」を興すことになり、戦後残っていた文教書院の紙型(鉛を流し、本を印刷する鋳型)をもとに、1冊の本を再発行して我が家を助けてくれた。
父は私が3才児で亡くなったため、ほとんど記憶にない。兄妹の末っ子の私だけは「母の背中のみ見て育った」と言える。戦後すぐの物価高騰で、母の貯金は2年ほどでゼロになったはず。三男が夜間高校の講師のアルバイトと、特待生の奨学金で家計を支えてくれた。が母も兄達のいない時間に、残っていた「教育論叢」の金具をはずし、果物用の袋掛けの袋つくりのアルバイト。文教書院の株券を2つ折りにしポチキスでとめ、これに苛性ソーダの塊を詰め、薬局などに洗剤として卸すアルバイトも始めた。これを身近で見ていたのは私だけで、このため野球の道具ほか遊び品は自分で買おうと、小学5年から中1の3年間は納豆売りのバイトもした。母は一言も言わず、早起きを手伝ってくれた。
三男、四男の兄たちは、家の豊かな時代に大学、高校まで進み、戦後も臨時講師や家庭教師のアルバイトもしていたから、各大学でソシアルダンス部を興し、洋間に従姉を呼んでダンスを教えるほど。全体として上流志向で、嫁さんにしても良家の娘さんを2人とも選んだ。ここに「嫁という第3者」が入ってくると、親子関係はガラリと変わるということだ。学歴重視が仇になる場合が多いのである。三男は50代半ばで早死にし、その嫁さんも最近90代の初めで亡くなった。このため今自由にものが云えるのだが、「金持ち出の嫁さんほど義理の親を大切にしない」ように思う。三男は大阪勤務で、商社の支社長の娘と結婚したが、春秋の2回上京の度に各3万円ほど母に渡していた程度だ。四男も豪邸に住む会社役員の娘を嫁さんに。四男は戦時中、子がない腹違いの姉のところに養子にはいったが、戦後の東大時代は我が家にた。結婚後に母に小遣いをわたしたのは見たことがない。この通り一流大学を出したからと言って、親が幸せに暮らせる保証はないのである。 やはり子育ては、「人への愛情、思いやりのある対応、誠実さ、勤勉さ」と言ったものを育てることに主眼がなければならない。
母は、人への思いやりという点では模範生であった。岡山や兵庫から頼ってやって来る親類や知人の就職や住居の手配もした。母の姉に対しても「空襲になると不安だろうから」と、叔母を我が家のすぐ近くに越させた。姪っ子についても転校させ、私と姉と一緒に集団疎開をさせた。戦中はPTAの役員になり、私達姉妹の集団疎開児童に送るおやつの材料の調達等に励んだ。戦後は一気に「斜陽母子家庭」の様相を呈したが、母は仲人を趣味みとし2週間に1回ほど、客間で見合いをさせていた。結婚後には妻もお茶運びを重ねた。また生協の牛乳やタマゴの分配拠点をかって出た。もっと大きいこともした・・・腹違いの姉の嫁ぎ先は神田の有名な米穀商だった。ために隣町の阿佐ヶ谷に広大な土地も持ち、合わせて空き家も1件持っていた。広大な敷地が杉並区立第第9小学校というところに接しており、學校(実際は区)に対する売却交渉も母はした。また借家には叔母の世帯と甥の世帯が一緒に住むよう図らった。甥が間もなく死んだが、その家族が自立できるよう荻窪の100坪の土地を退職金で買わせた。甥の未亡人は娘2人の家族3人だが、この都会の空き地でヤギ、次いでニワトリを飼い、最後はアパートを建て、次女を音楽大学を卒業させた。孫は東大を出て、今立派な裁判官になっている・・・ここにも後家の頑張り、母親の強さが子や孫に投影されていることを知るべきだろう。「母親は偉大なり」である。
私が浪人中に一時受験をあきらめたことがある。杉並区は福竜丸被ばく後、原水爆反対運動の拠点になり、平和運動にのめり込んでいたからだ。正月になり「何も手に職がなく体力もない。大学も出ないのでは働く口もない」と意見され、母と取っ組み合いの喧嘩だ。このことがあり、2期試験の国立東京農工大を遅ればせながら2月に受け合格。都会人の農業関与の路線が決まった。「体を挺しても息子の無謀を止める」という母・・・ここにも母の人間性、教育観が出ている。このころには兄2人、姉の3人とも就職、結婚で家を出ており、母は6間のうち3間を学生の下宿人に貸し、母と私の生計を支えた。
少ない収入であるが、母は少額の年金と下宿収入で家計を賄い、少しの余裕金を残し、3年に1回かの姫路高等女学校の同窓会(戦後、男女共学の高校に)には必ず出かけていた。1期生で成績もよかったので最上席に座らせられるのが快感だったのだと思う。生協の地区団体の旅行にも必ず出て行き、皆に背中を押してもらいながら、70代で会津白根山にも登った。貧乏であっても金の使い方がきれいだった。ここぞという時には金を出すことが、世間を広くすることになる・・・と考えていたようだ。阿佐ヶ谷の高利貸しのおばさんも、月1回訪ねてきたが談笑して帰り、友達付き合いになっていた。「借りたものはきちんと返す」の基本姿勢がしっかりしていたからだろう。
5.私はといえば自由人過ぎたかも
集団疎開から帰り、5~6年生のころは、近所の中学生2人を含む10人衆と徹底してベーゴマ、野球、追っかけごっこ、近くの日大二中・高校のグランド(垣根が壊れ自由には入れた)での100m、300mのマラソン?、幅跳び、三段跳び、竹棒によるやり投げの5種競技もした。早大ブールまで行き25m幅のプールでリレーにも興じた。私は自然が好きで、この仲間と離れ、北方500mにある田圃地帯に行きフナやクチボソ釣りにも興じ、付近のコナラ林でカブトムシやクワガタ捕りもさんざんやった。これこそ「本物の子供時代の姿だと思う」し、私を含む4人を除けば6人はクラスの級長、副級長ばかりだった・・・遊ぶことが学力の低下にはつながっていない。
納豆売りもあって予習・復習が疎かになり、小学6年のときクラスで3,4番くらいだったものが、中一では10番くらいに落ちていた。1学期は先生推薦の副級長だったが、2学期には先生のお声がかりで役をおろされてしまった。このため目立ちがりやの気があった私は「いたずら子」になっていった。中学校の2階から樋を伝わって降りてみたり、玄関の軒下にいた美人の下級生に2階からバケツで水を掛けてみたり、昼休みにイチジクやカキ泥棒に数人で出かけたり・・・とさんざんいたずらをしたものだ。これも人生の一里塚。高校に入って勉強の遅れを感じガラリと修正したものだ。数学は兄に影響あって中学でも得意科目であったが、高校の1学期は頑張って3区分ともAを貰い、おそらく数学ではクラスのトップだたと思う。古文、体操という苦手部門も頑張ってA。大切なのはどこかで「頑張るぞ」と言う競争心が子にあるかどうか・・・親は注視する必要がある。これは個性を磨くことにも通じ、優等生になることとは違った意味がある。
高校2年から浪人、大学の計6年間は、平和運動というか学生運動の中心にいた。ただ大学時代も「農村のため役立つには、それなりに勉強が必要」と、遅刻したときには図書館で独学に励んだ。4年に進んでからは7月の国家公務員試験に向け運動を抑え試験勉強に没頭。おかげで「農学職」と言う分野の試験では900人以上の中で14位、学科内では2位にくいこんだ(農学職の他、園芸、畜産、農業機械、農業経済という部門もあり、農学職が総てではない)。「農業に貢献したい」の目的意識を持っていたから達成できたこと。どれだけ強い目的意識を子に持たせるか・・・これまた教育の原点ではないか。母は「人助けを好む」と言う点で、私に貴重な目的意識を与えてくれたように思う。私は79才で仕事を辞め、80才からは3つほどのボランティア活動に専念、母に負けず今老いても、人助けに励んでいるつもりだ。若さを維持でき自分自身のためにもなる。
最終2次試験で学生運動がたたり、公務員試験に落ちた。見かねた研究室の近藤頼巳主任教授(後・農工大学長)が、平素執筆している農協関係で日本一の発行部数を誇る「家の光協会」編集部に押し込んでくれた。雑誌「家の光」「地上」の2誌の編集担当であった。職場結婚をした時も、近藤教授が2人仲人の1人になってくれた。就職と仲人をともに後・学長が引き受けてくれたのは、私以外にはないはず。この恩義に反し、6年勤務し80ほどの農業先進地や農産物販売の担い手のスーパー等を記事にし、「もっと自由が欲しい」と冒険的だが30才にして独立した。
昭和25~30年前後は生鮮品の価格の乱高下が激しく、「地上」で「畑から台所まで」、「流通パトロール」という連載を2年間続け、都会出の農業人として生鮮品の流通に切り込みやすい・・・という考えが独立を促した。当時存在した出販社・商業界の「販売革新」「商業界」、遅れて出版された「食品商業」に農産物の流通問等多数の原稿を書かしてもっらた。おかげで流通評論や講演まではどうにか良かった。
6.時代の流れは加速し息子に苦労を
が、中小企業診断士の資格を昭和43年に取得し、いざ経営コンサルタントとなってみると、農業大学出で経営学の基礎を学んでおらず、正直苦戦続きだった。 高度成長期に入り時代は急速な変化を遂げた。簡潔に昭和40年以降の私の足取りを紹介すると・・・
①1965~67年 東京都青果商組合の若手育成講座を5市場で開催する講演会講師。
②1968~70年 青果店若手40人ほどで、青果店近代化研究会主催。
③1971~73年 11人の青果店有志を総合化し、「みどりチェーンの店」主催。
④1974~76年 「みどりチェーン」会員とともに食品店、酒店、青果店の共同仕入れー総合化を支援するエムシーチェーンに合流し指導部長。事務局長の造反劇に担がれ馘首。 この時代コンビが急成長を開始。
⑤1977~84年 渋谷区と新宿区に個人事務所を持ち、小型総合店の開店実務指導。だが末期にはコンビニの隆盛し、スーパーの大型も進む。仕事がた減り。84年に委託を受け市場調査後に経営を委託されたコンビニに失敗。
⑥1985~89年 自宅を事務所にし、ささやかにボランタリーチェーン顧問の仕事。
⑦1990~2004年 全国21生協の大型店出店のマーケットリサーチ。04年にコープ大型店の不振もあり、リサーチ受託ゼロに・・・大ブレーキ。2002年に童話風の環境小説「成木川の早太郎」発表。 04年にはすでに68才で普通なら定年超え。
⑧2005~06年 NPO「食の安全安心研究会」を発起、副理事。
⑨2007~14年 社団法人「農業経営支援センター」発起、副理事兼業務部長。
⑩2014年 79才末でコンサルタント業引退。ボランティア活動を推進。
独立しすぐに商業関係の出版社の3誌に出筆し、青果店の多くの若手経営者から「先生」と呼ばれ天狗になってしまい、日々の勉強を怠ったところに問題がある。男親がいれば、男の社会の厳しさを教えてもくれ、違っていたはず。母が私を怒ったのは浪人中の「受験問題」の一回限り。兄姉3人に対しても、母が怒ったのは見たことがなかった。上蓋がなく、私は完全に自由人すぎた。三男と母の庇護があり、経済的な苦労もさしてしてこなかった。「一般のコンサルタントは実務に無知」との批判ばかり先行、「実務派コンサルになるのだ」と、八百屋さんや乾物屋、酒屋の10~30坪の店の総合化にむけた調査、レイアウト、商品選定、売価設定、陳列、販促については50店舗も手掛け、プロヘッショナルにはなったが、大手スーパーチェーンが、こぞってコンビニチェーンを展開しはじめた。
これ等コンビニ・チェーンは、売れる・儲かるシステムを小型店に提供。こちらは永遠の生命力を持たない、小型食品店の総合化のみのお手伝い・・・これでは勝てるはずがない。実際、委託を受けて東京の五反田にだした我流コンビニ店は2ケ月で敗退。従業員3人に給与も払えす、迷惑をかけたものだ。
ジャーナリストであり哲人ともいえる立花隆氏は、一冊の本を書くのに100冊の本を読んだと言い、かつ周辺調査を徹底してやられた。私も1.5冊の商業関係本の出版にからんだが、経営書を読んだのはせいぜい15冊くらいではないか。これでは発展性ある経営の指導ができず、診断依頼先が多方面に広がるわけがない。開店指導の後、コープ大型店のマーケットリサーを15年間専門にやり、ある意味で小売業・農業問わず「経営の発展的システムつくりの指導」から離れたため、リサーチ終了→コンサルタント業停止までの約10年は半ばコンサルタントとして死んだも同然だった。
6.息子は小5,6年で四国や能登へ1人旅
私には長女と長男の2人の子がいる。泊まり込みの開店指導や8年間の事務所くらしで、家を空けることも多く、子育ては妻が中心であった。娘は絵が好きで、新宿の女子高校を出るにあたり(多くのクラスメイトは新宿のデパート等で実習・就職)、「もっと絵を深めたいのでは」と、3学期に一緒にその方面の学校を探した。娘は当時渋谷にあり、後に青山に移った2年制の「絵本の学校」というのを探してきた。私がコンビニ経営に失敗し、加工食品や菓子の在庫を引き上げ、自宅の6畳間にうず高く積んでいた。娘はウイットに富んだ会話を連発する明るい子に育っていた。当時「絵本の学校」の2年生だったが、食品やお菓子を毎日持って出て、職員室に行き軽快な会話で先生方に売りつけお小遣いに換えた。
息子は姉と8つ違い。小学6年だった。多忙にかこつけ、息子を遊びに連れていったことは数えるほど・・・浅草の三社祭り、房総の海水浴、ボランタリーチエン時代に子会社のスーパーの社長も兼務し、その社員旅行に同道、隣町の釣り堀に2回・・・くらいしか思い出せない。妻は男2人、これに続く4人女姉妹の長女だった。私同様、母子家庭に育ち責任感もあり、「曲がったことは絶対しない」性格で息子を育てた。三社祭りの際、氷菓子を無料配布していたが、私が乱れた列の中ほどに割り込もうといたら、息子は「お父さんこっちに並ばないとダメだ」と正式な列の方へ並んだ。ために途中で品切れ。息子は泣き叫んだ。物が渡らなかったから泣いたというより、正しい列に並んだのにダメとなった不条理が、よほどくやしかったのではないか。
小学校3年のときの授業参観の際、算数のテストがあり1番早く出し100点。数学だけは理系の遺伝子のためか良くできた。他の成績はほどほどだったと思うが、記憶がない。私がほったらかしにしたため、自立心は強かった。小学5,6年には企画を立て、貯めておいたお年玉で四国や能登半島を1人旅した。「小さいの!1人で良くここまできたな」と、バイク旅の大人からご馳走してもらったこともあるようだ。後に世界を雄飛できたのも、こうした自立心と旅慣れといったことと無関係ではない。誰にもすかれタイプ。当時流行しはじめたゲーム機も買ってやれなかったが、不満も言わず友達宅でゲーム機を楽しんだ。3段変速の自転車も買ったやれなかったが、湘南への自転車の旅では3段変速を普通の自転車で追いかけた。
私の経営破綻のなか、息子はごく普通程度の公立高校に進んだ。1年過ぎた時、三男の兄が死に50年住んだ荻窪の家を処分、花小金井に越した。息子が高校2年のときである。息子は区域を超える越境通学となり、西武新宿線で電車通学することになった。鷺宮駅と言うところで降りなければいけないのだが背が低く、満員電車に乗ると鷺宮駅で降りられず、新宿駅まで運ばれ遅刻することもあった。小遣いがほとんどもらえず、帰途に駅前のレストランでアルバイトを始め、疲れもあり机につくなり居眠りをするようになった、気づかない親も親だ。
ひとつには、息子は「大学の受験勉強本位でなく、高校は伸び伸び部活に励むところ」との考えが強かったようだ。私は音痴で楽器とは無縁だったが、1年のときキーボードえを買ってくれ、2年になるとドラムを買ってくれ・・・と急にせがまれ、演奏の部活にはきわめて熱心だったからだ。
2年になり、2学期はじめの学園祭までは部活に一生懸命。ところが学園祭が終わると学校をしばしば休む。部の女の子から「学園祭の打ち上げ会があるから来てね」と電話があっても行こうとしない。それでも夕方に小遣い欲しさに、駅前のレストランで帰り2時艱ほどバイトをしていたのだ。学校は休んでも、バイト先には毎日出たようだ。私は西新宿の事務所にバイクで通い、遅く帰るので息子の現状は知らずじまい。12月に入り学校から「お子さんと2人で来てくれ」の連絡。行くとすぐ担任から「お子さんは入学時の成績が良く期待していたが、最近は出てきてもいきなり机にうつ伏せして寝ている。勉強する気がないので退学してもらいます」と告げられた。この日からが、今日100店舗、年商100億円の海外飲食店チェーン(日本の一流チェーンのフランチャイズ)を達成した「息子の人生」の第一ステップが始まったと言える。
駅前レストランで少々金を残したのか、親に頼らずアパートの一室に越した。受験路線に乗り切れない友達が、この部屋に押し寄せ、「よしてくれ」と言っても窓を持ち上げ侵入、おそらく押し入れの中でタバコも吸ったのだろう、フスマは穴だらけ。息子は「これではいけない」と、ビル天吊り工事の親方のところに移籍し下宿することになった。数日たち、アパートの大家から、襖の修理代8万円の請求が来て私が払った。 私が息子に今日まで援助した金額は、この後述べるオーストラリアのホームステイに出向く際の22万円と合わせて計30万円に過ぎない。他にびた一文も援助してないのだ。
ビル工事の親方のところへは1回だけ、わずかな手土産を持って様子伺いに行った。親方は「小さな娘を、よく可愛がってくれ助かっている」と礼を言われ、まともに働いているので安心した。ただ1年程して「リーダーの男が良くしてくれたが、最近になり薬を吸い始め、見ていられない表情なので辞めた」と連絡をもらった。生活の乱れといったことから、上手に逃れる姿勢だけは持ち続けたようだ。その後は喫茶店を一つか二つ経験したあと、お茶の水にある青林檎というフレンチレストランに勤めた。ここにも、私は店に1回とマスターの家族のクリスマスパーティーに1回伺い、「よく働いてくれる」と感謝された。自由放任主義とはいえ、子供の様子見は大切である。周りから感謝され愛されていれば、「良く働いている証」であり、安心できるものである。
私は英語が大の苦手・・・遺伝は当てにならず、次世代に引き継がない場合も。レストランーや喫茶を渡り歩くと、接客で英語が必要になる。このため息子は少しずつ英会話を身に着けて行ったのだろう。青林檎ではすぐ近くに「折り紙会館」があり、外人が頻繁に来る。マスターも「お前、英語ができるなら大いに使ってくれ」と尻押ししてくれたようだ。英検2級の資格を取りもした。今現在では「沢山、日本人経営者等の英会話に接したが、実際はきれいな会話でないと通じてない。おれがもっともきれいな英語かも」と言うほどになっている。
青林檎時代、都内のディスコで関西に住む女性と知り合った。娘さんに惚れられ、親に会いに大阪に出向いたが、建設事業を経営する男親は会ってくれず引き返した。大学での一人娘。高校中退の息子では無理もない。夏になり、娘さんから「参加者はほとんど大学生だが、オーストラリアのホームステーに行かないか」と誘われる。だが金がない。私は見かね、池袋にある旅行代理店を訪ね、まだ間に合うことを確認、息子のアパートに直行した。日曜で5~6人が集まって酒飲み。息子を外に引っ張り出し、「お前、オーストラリアに行きたいのだろ。明日、この金持って旅行代理店に行け」と22万円を渡した。
私は花小金井の家が上手に売れ、千葉の佐倉市に越していた。息子は成田から発つため前日に来て泊まり、翌朝に成田空港まで車で送った。1990年(平成2年)の夏だったと思う。息子と羽田で分かれて1年後の夏、2人で千葉の家に来た。娘さんが「息子さんと結婚させてくれ。親も納得してくれた」と言うのだ。すでに息子から経過を聞いていたので、外房の民宿に妻もいれ4人で記念の海水浴に出た。私の推定になるが、ホームステイをすれば、必ず1~2回ぐらいは野外パーティーもする。高校生は1人だったが、英語が一番堪能で、かつ料理の腕前も息子が一番・・・となれば買い物や調理で1番光る存在になる。娘さんは、親に「大学生のみんなより、一番頼りにされていた」と説得したものと想像する。
いずれにせよ、私は子供たちに金銭的には不自由を強いてきた。だが、娘の「絵本の学校」への進学、息子のホームステイと言った人生の岐路には、親として重要な役割を果たしたつもりである。娘について補足すると、「絵本の学校」の推薦でマンガ界の巨匠といえる故・石森章太郎の個人事務に就職できたのである。深夜1時の帰宅になることもあり1年で辞めてしまったが、おかげで2~3年間マンガで自立生活を送ることもできたのだ。
息子が娘さんの住む大阪に越し、結婚したのは確か平成3年だと思う。これが、今日の成功の第二ステップと言える。人間、結婚して初めて心の安定を得、仕事にも力が入れられるからである。大阪のスパゲティの店に就職、ここで3年ほど過ごし次いで神戸に移転、コロワイドに3年ほど勤務・・・この間、結婚式、長女や次女を連れ1回づつデズニ―ランド見学に来た時、私が出張のついでに大阪で1回会い、計4回しか会っておらず(最近の5年は年に1~3度は帰国時に会っている)、確かな動向を年表にできない始末である。
7.「食の感動でこの星を満たせ」
コロワイドでも多忙でレジに寄りかかり、うとうとしたこともあるという。幸い近くに人材ハントの会社があったようで、誠実な働きぶりを見たのか丸亀製麺へのハンティングの話が来た。息子は後継店長を育てたうえで移籍を考えていたようで、話があっても4ケ月動かず、私を心配させた。責任感の強さを持ち、これがハントにもつながったはずだ。丸亀製麺の母体はトリドール。代表取締役社長の粟田貴也氏は卓越したビジョン、企画力、指導力、実行力の持ち主。2023年9月現在、丸亀うどんだけで国内823店舗、海外8ケ国244店舗である。そして2028年では20以上業態を持つトリドールグループ全体では世界に5,500店舗を目標にし、今や「麵で世界一」を狙う日本食レストランの雄である。だが、息子が入社した2005年(平成17年)当時はまだ年商20億円規模で、大幅な飛躍をねらうため息子もハントされたようで、最初は店舗で新しい商品開発に参加したようだが、次に加速する出店のため店舗開発の担当になり、出店や建築の許認可のため行政対応や建築に必要な法律知識も身に着けたようである。親の私は450坪クラスの生協の出店リサーチを350地区もさせてもらい、エリアの該当世帯20~40を実施し、顧客動態を反映させたハフモデル法というリサーチ技法の確立に専念した。が、丸亀製麺の出店は「感」を重視、ダメであれば早くに撤退という方法であったようだ。これが出来たのも麵自身を各店で製造するため地域拠点工場を持たずにすみ、「工場能力に見合って出店する」と言ったリスクを回避してきたのだ。また店が増えれば経験則が活かせ、出店の失敗は少なくなる。スーパーにおいてもハフモデル法ではなく経験則による出店が主流と見てよい。
このあと、英語が堪能ということで国外を雄飛することになる。世界を2分し息子は東南アジアの店舗開発担当で、その様子は2014年5月の日経ビジネス「Associe」に丸亀製麺と息子(43才時)の動きが紹介されている。ここで息子が語ったことをもとに、本人の歴史を語ると・・・2011年から丸亀製麺の海外進出が本格化。シンガポール、ジャカルタ、シドニー、バンコック、ホーチンミン、ハノイ、香港、深圳などを飛び回り、日本の本社に出社するのは月4日ていど。この時から後に赴任するインドネシアのジャカルタだけは、アパートを借り1週間は滞在、他は4日で移動という強行軍(小学校時代の1人旅が役立ったはず)。息子の子供は娘、娘、息子の順で3人。久しぶりに家に帰ると、幼い息子から「この人は誰」と言われる始末。航空機で移動する時間が多く、この時間は外界と完全に遮断されるため、やむなく学習時間に・・・経営や経済、関係国の政治などについての本などを存分に読み、ときに中国語の勉強もしたようである。
ジャカルタだけはアパートを借りていたのは、インドネシアの人口が2億4,000万人 と多く、スカルノ、スハルトの独裁政治を繰り返さないための法律的規制もされ、政治が安定していて出店条件が整い、「有望な国」と考え1号店の準備もあってのこと。現地の製粉会社の大手スリガボは、すでにアメリカのピザハットと提携し実績をあげていたのだが、「小麦粉製品」が接着剤となりフランチャイズ契約が成立。一号店を西ジャカルタのショッピングモール3階に開店したのは2013年(平成25年)3月5日である。210㎡(63坪)、客席115だが、直ぐ日本では例の少ない1日1,000人を集める繁盛店になった。
成功要因はトリドール代表の粟田氏が掲げる「お客様にすべてを見せろ」「物語を作れ」「食の感動で、この星(地球?)を満たせ」を基本に置き、かつ現地に見合った店舗形式や味を追求。さらに人口の89%がイスラム教徒であることを考え、ハラールと言ったイスラム教の基準に乗っ取った原料の確保、物流システムの構築を十分時間をかけてやり、完全を期して開店したのである。ハラールでは豚肉やアルコールの使用は認められない。醤油、酢、味噌といった発酵食品は厳禁。このため現在でも日本産品の原料は使ってないのだ。
次なる問題は味や接客のインドネシア化である。インドネシアは赤道直下で、コメは取れるが小麦粉は取れない。オーストラリアから小麦を輸入し製粉してピザなども作るが、「うどん」という文化はなかったわけだ。現地の好みも考え、塩分も日本より低く、太さも細くしてた。その代わり、トウガラシや七味唐辛子をドバッとかける習慣があり、この用意は十分にした。次なる課題は接客。レジにに並んでいる間に、欲しいものを決める習慣がなく、決めるサポートが必要。さらに食べ終わった後のどんぶり他の食器をセルフでかたずける習慣がなく(中国やベトナムも同じだという)、これを店側がする。ために日本なら従業員7人ですむところが30人もかかる。次にインドネシア化の最大のポイントは高級路線である。「うどん食は健康にもよく珍しいもの。高級ななもの」というイメージ戦略である。店の看板は「MARUGAME UDON」とし、壁は落ち着いた灰色が基調で豪華さを演出。一番良く売れるのは肉うどんだが470円、釜揚げうどん333円。トッピングはピーマン天が96円、ブロコリー天かき揚げ天や手作りビーフコロッケが95円等。丸亀従業員の月給は1万数千円だから、いかに高額か分かろう。従業員は手が届かない単価なのだ。日本人が一流のウナ重を食べる感覚である。これは丸亀の他の国の店においても同様。格差社会の富裕層をターゲットとして丸亀は成功してきたのである。日本文化としての桶が珍しく、釜揚げうどんが桶で運ばれてくると、周囲の人まで珍しがりスマホで撮影するそうだ。桶という日本文化が珍しがられ、店の個性化のため「日本人のシェフを配置しろ」の希望すら出ているという。
息子が丸亀インドネシアにハントされ、丸亀製麺を辞しスリコバの1員となり、現地法人のジェネラルマネージャーになったのは3年後の2013年ころではないか。これが成功への第4ステップである。当初、ピザッハットと一体であったが、アメリカのピザハット本社から分離を要請され、さらに3年後の2016年ころには分離独立し、息子は社長になった(何年かはやや怪しい)。いずれにせよ、年に10店ペースで、多数の島にも出店し、2023年11月に100店、期間売上年100億円を達成し、現地記念式典でトリドールの粟田社長からカップを頂戴した。店数、売上、利益率ともに丸亀海外チエーン中ダントツの一位であり、コロナによる客数減少時にも利益を出し続けたのである。
従業員の給与は日本に比し安くうつるが、優良企業として評価され、求人募集をすれば数100人も応募、予備要員まで確保できる。というのも従業員を島々からも集め運動会もやれば、本社に美容部員も配置し島々もめぐって美容指導もする・・・といった具合で、誇りを持てる職場を創ってきたからだろう。なお、インドネシアに赴任するとき、現地に骨をうずめる覚悟をし、一人娘さんの妻と子供3人を連れて行くわけにいかず、一応離婚をしている。だが大阪の一家は今も近藤を名乗り、かつ今年の正月は孫2人が我が家に来て正月を過ごしたくらいだ。月3日しか会えなかった末の男の子については、罪滅ぼしのためか、毎年2~3度帰国するたびにスキー、海水浴、キャンプ等々とサービスの限りである。私の半自由放任主義とはいささか相入れないが、私達低年金夫婦への経済的支援も含め、責任感の強さには感心する。なお、インドネシアに行ってから、現地の娘さんと結婚。息子が大学を出させ、保険会社ではすぐ新人賞と全体で1位賞のダブル受賞。いまはSNSで100万人以上のフアンを擁し、コマーシャルに出て稼いでいで自立できる実力者。だが子供はいない。
昨年は3度ほども帰国した。必要んな会議は我が家の台所の机にパソコンを置き、テレビ会議を開いている。「忙しいが毎日が楽しい」と先の雑誌の最後に述べているが、親と違い成功体験ばかり続けば楽しくてしょうがないはず。①幼いころからの自立心、②誰とでも仲良く付き合う協調性、③乱れた友人とは決別する潔癖性、④空白時間は学びに当てる向上心、⑤幼児や従業員等弱者を思いやりの心・・・こうしたことをどう親が育てるか。注意するよりは、まず親が正しい背中を見せる必要があるのではないか。
ご意見・ご感想があればお聞かせください 近藤 jkondou@biscuit.ocn.ne.jp
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