私はこの5年間ほど、アルバイトで派遣会社の雑務の手伝いをしてきた。主にふじみ野市周辺をエリアとした、外人ばかりの派遣会社である。外人さんからの相談や頼まれごとの多くは、市役所や税務署ほかからの郵便物につい「何が書いてある」とか、「病院に連れっていって」「薬を貰ってきて」「灯油を買ってきて、アパートに置いておいてくれ」といったことだ。さらに「アパートを探してくれ」といったことも多い。
ここで紹介するのは、アパート探しを手伝ったアフリカ人(もちろん黒人)のヨルさんとの4年間の交流記録である。いままで月家賃3万円以上だったのを、負担を軽くするため2万4千円の物件を見つけてあげた。1件めの紹介でまとまり、私は保証人ではなく苦情が発生したときの「連絡人」になった。ヨルさんはアフリカでもべナンという小国からきたため、同国の友人が一人もいない。だがら淋しいのか頻繁に電話してくる。ともかく真面目人間。もくもくと稼ぎ、故国に残してきた親や離婚して引き取った1人息子にきちっと仕送りすることを喜びとしていた。
このこともあって、アパートを紹介して直後に稼ぎを考えアルバイト先の会社を辞めてしまった。夜の工事現場に移ったのだ。私とすれば勤め先のため役立てれば・・・とアパートの無料斡旋をしたのに、面目まるつぶれである。だがヨルさんが、稼ぎのよい(夜)の仕事に移るのは、ゴロ合わせからすれば自然のなりゆき・・・と思うことにした.
我が社であれば、時給は男なら1,000円(女900円)が相場だ。夜間の工事現場だと8時間で10,000円・・・時給換算で1,250円。このため、月給は22~25万円にもなる。あるアフリカ系が中心のアパートをたずねたとき、ゴミ集積場にビールの空き缶が山と積んであった。夜ごと、軽い飲み会で異国生活のウサ晴らしをしているのだろう。ヨルさんはこの時間に働き、故国への仕送りを増やすのに邁進した。4年後の今、「おかげで国に4部屋ある家が建ちました」と自慢げに語った。
いずれにしろ、アフリカ人でわが社に来る人の半分はピーピーで、「社長、お金を3~5万円も前貸してもらえませんか」という例が多い。先日も社長は新入アフリカ人に「アパート契約のため」と10万円貸した。ヨルさんはイスラム教の敬けんな信者のためか真面目である。最初、くら寿司に連れっていた時も、スマホでイスラム教徒が食べてはいけない料理のリストをいちいち調べているのだ。発酵食品はアルコール分を含み、本来がごはっと。となれば醤油や酢もダメになる。だからヨルさんは、何を食べたか覚えてないが、2皿ほど食べただけで店を出たように思う。
写真:島田家住宅前のヨルさん
休みの日には、しばしば電話をしてくるのだが、私は車で1時間も離れたところに住み、簡単には会ってあげられない。だが何かしてあげねばと、1回は三芳町の「いも街道」と、ここにある旧農家の「島田家住宅」屋敷跡や町の郷土歴史館、1回は川越の中心市街地、1回は我が地元の入間川河原やジョンソンタウン・・・を案内した。ペナンやコンゴーなど西アフリカ諸国はフランス植民地だったところで、フランス語をしゃべれるしオシャレである。クリスマス・パーティーのときにはみんなダンディな服装で来る。ヨルさんも外に連れ出すときは、濃いい茶のソフト帽子、白のとっくりセーター、茶のジャケット、薄茶のズボンとカラー・コーディネートした格好で現れる。そして観光スポットを背景にハイ、ポーズと型を決め、私が写真を撮る。これをラインで故郷に送ることが楽しみなのだ。
フランス語はもちろん、英語も全くダメな私である。せっかくの観光スポットを見せても、何も説明できない。目で見て日本の一断面を知ってもらうしかない。もどかしい限りである。最初困ったのは、お金の支払だ。向こうは、私に負担させまいと充分にお金を持ってきているのだが、どのタイミングで出せば良いかわからない。だから初回は私が少額だが全額おごるはめになった。
外国人にとって日本的マナーの習得は難儀である。川越に行ったときは、自分で乗ってきた中古自転車を上福岡駅前に乗り捨て、私の車で出かけた。返ってくると新品に近い自転車がない。放棄自転車として回収されてしまったのだ。幸い私がいて、「これは回収されて、盗難ではないと」と直ぐ判断、交番に聞いて2kmも離れた南古谷の回収車置き場に車で取りに行き、事なきをえた。ヨルさんは別として、携帯を持っているのに、遅刻や欠勤の電話もしない、辞めるとなると電話にも出ないで、給与だけは貰いに来る・・・という例も少なくない。
ヨルさんは自己管理がよくできていた。「来週の日曜は休みだから遊べないか」と必ず1週間前には電話してきたし、約束の時間もピタリと守ってくれた。近ければもっともっと日本を知ってもらうよう引き回したのだが、5回に1回も希望をかなえてあげられなかった。
本日(令和2年12月30日)は、どうも別れの日になりそうだ。喫茶店にはいる前に、車の中で「これ、あなたと奥さんのジャンパーです」と2着入った買い物袋をくれた。 喫茶店の席につき、彼は在留証明書を取り出した。その住所は大阪府堺市となっていた。私の息子が結婚と同時に住んだところだ。結婚話は3回ほど前に会ったときにすでに聞いていたが、1回ペナンに帰って3ケ月程過ごし、再度日本に帰ったらすぐ堺の彼女のところに住むそうである。彼女はもちろん日本人。しかも英語の先生とかで、今日もラブラブの2人が写った写真を見せてくれた。ハッピーエンドな別れとなり嬉しいかぎりである。しかし、コロナ禍のため計画通りの帰国、再入国ができないかもしれない。場合により、本当のグッドバイは先になるかもしれないのだ。