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2015年12月24日木曜日

炭火焼きだんご「あな味」(野田458)


 団子3姉妹と備長炭へのこだわり 地方創生

 写真① 時間と曜日を確認していかないと、「売り切れました」になる。
 
    平成元年に開業し、当時からTBSや日本テレビ、地元のケーブル局等が競って取材・放映し、地元では有名な団子屋さん。「あな味」は3人の娘さんの名の頭文字を採ったもの。このうち2人の娘さんが現在、店を守っている。

 創業者のお父さんは市役所勤めの技術者だった。定年後、遊び心で「何かこだわった手仕事をしたい」と、この団子屋を始めた。だから住宅前の店舗は2坪ほどの小さなもので、現在も「売り切れ御免」の商法である。予約しておいて、11時半くらいまでに行かないと「本日売り切れ」の札にしかお目にかかれない。それだけよく売れる味自慢の店ということだ。

    こだわりは、本物の備長炭を使って、じっくり焼き、うまさを引き出すことだ。開店前に夫婦して本場の和歌山県の備長炭の里を訪ね、炭の特性も充分掴んで帰ったようだ。なお「備長」とは優秀な炭を作った人の名前である。

   原料は米粉だが、新潟ほかの「うるち米」を上手にブレンドし、団子のややザゴサゴ感を演出するよう荒めに引いてもろらっている。作業場を見させてもらったが、出来立ての団子4ケを串に刺し、赤い炎を発する白い備長炭の90cmほどの焼き炉にかざさせて行く。秘伝の醤油だれが塗られると、香ばしいさが狭い作業場に充満。
 写真② たれを塗れば、作業場は香ばしさで充満。

  団子4つを刺したものが、1本100円ぽっきりだから、きわめて手頃というより安い。すぐ持ち返って夫婦2人して、出来立てをハクハク。昼めし代わりだったが、味、香り、のど越しの3拍子揃いのため、1人3本を瞬く間に食べた。確かに評判通りのうまさだ。

   本当のところ、毎日、しかも1日中売って欲しいが、当初からの限定日時の販売だから、無理は言えない。前・入間市長も大いなるフアンのようで、店内には「あな味」さん宛ての額が展示されていた。「客の鈴なり」と記してある。

 
写真③ 前市長の木下氏(喜乃志多)が贈ったおめでたい額

営業日: 月・火・木・金(水・土・日・祭日休み)
営業時間:8時半~売り切れまで
予約:  04-2932-0347・・・電話注文してから伺うのが確実。
場所:  中橋を渡り、すぐを左折、西武公民館前を行き100m先
                         
 写真:焼団子
令和5年4月14日(金)訪問
 現在のお値段 焼団子4ケ1串 120円
        草餅   1ケ 130円
        柏餅   1ケ 140円・・・4月末販売開始予定
 写真:昔と変わらぬ構え  「売切れ」の札


上橋付近は絶好の写真撮影スポットだ!


 大ケヤキと3つの橋ーそして西武線が走る

「入間川遊歩道」を来て、上橋近くに写真①の標識がある。これを折れて河岸に出る。この河岸100mほどは、自然愛好家、鉄道ファンにとって絶好の写真撮影スポットだ。イギリス海岸とは石堤で仕切られ、河面は2メートル近く高い。
                

写真①(上)河原に降りる    写真② (上)対岸に見える大ケヤキ

写真③ 岸に根元を見せるケヤキ。水中には「入間川イギリス海岸」が続く


対岸に大ケヤキが15本ほどそびえ(写真②、③)、川の中には「入間川のイギリス海岸」の奇岩が、上流に向かって100mほど伸びている。その先には飯能側の「公園」ほかが遠望できる。
写真④(上) 上橋下の撮影
 スポット


写真⑤(右) 廃線の鉄橋と
 現西武線鉄橋が重なる



振り返って、中橋側を向くと中橋(写真④)、廃線になった赤さびた旧西武線の鉄橋、そのさらに先に現在の西武線の鉄橋が重なり合って見える(写真⑤)。そして、ときどき西武線には電車が走る(写真)・・・自然と人工物のハーモニーした場所なのだ。


写真⑥ 西武線が走る。手前の赤茶びたのが廃線の鉄橋。 

2015年12月22日火曜日

ミステリアスな蛇糞石-昔海辺

   古代の穴ジャコの巣に鉄分が沈積
    写真の2つとも蛇糞石だが、右側は墨を塗ったふしがあり、本物の色は左側のほうである。西武線仏子駅近くの入間川の特定地区に埋もれている。入間川の中流域は昔、何度か海が伸びてきた地域で、海岸の入江に穴ジャコ類の1つが生息。そのI字やY字(入口2つ)の巣穴が菱鉄鉱で埋められ固くなったものが蛇糞石である。

       

「巣に入った砂が固まった」との紹介もあるが、鉄のように重い。実際に触れてみたければ仏子駅北口前の「喫茶シオ」にこの2つがある。掘り出させる現場は「保存のため秘密」としておきたい。切り立った断崖状のところである。 

ネットを探しても他所の事例がない。おそらく極めて珍しい土壌環境で生成されたようである。隆起した断崖の土壌の中に混じり、上部は林である。つまり植物の出す酸のようなもので菱鉄鉱が徐々に溶かされ、沈積したのではないか?と思うが、友人の1人は「ある日、一気に鉄状のものが詰まったものでは」ともいう。砂の中のただの穴なら波と砂で埋まってしまうが、穴ジャコが巣穴を粘液質のもので固めていて、そう簡単に崩れないのも幸いしたように思う。 

切り立った断崖の前の入間川には、「蛇糞石になりそこない」みたいな、同じ大きさの茶褐色の穴文様がいくつもある。だが茶の土を除くと白い浅い穴に過ぎない。こちらは菱鉄鉱で埋まる前に、普通の砂などで埋まってしまった跡ではないか。

蛇糞石は全国的に分布していないようで、まさにミステリアスで貴重な存在である。「180万年前の更新世前期の仏子層の凝灰質砂岩中に見られる」との解説がある。

2015年12月20日日曜日

仏子の貴重な遺産-煙出し楼


煙出し楼や門・板塀他は仏子駅近くに!

 蔵とともに明治・大正に至る現代史の足跡を残す建造物が民家の煙出し楼、瓦屋根の門、板塀などである。これらは仏子駅北口からせいぜい200m以内に集中している。煙出し楼に限れば、幹線道路の富岡入間線に沿い、西に1.2km行く間に、現在4件が残るのみである。静かに見て回ってほしいが、1~2時間ほどの散策ですむ。

1.煙出し楼
 煙出し楼は、囲炉裏の煙を逃がす屋根上に付き出した楼である。普通、瓦屋根の上に設けられるものと思ってきたが、同じ埼玉の三芳町が保存している旧・池上家の茅葺(カヤブキ)屋根の住宅でも(今から140年ほど前の建築とされる)、また他所の茅葺屋根でも煙出し楼が見られる。楼がないまでも、頂上の△部の端に煙抜き窓を付けている例にぶつかる。「煙で屋根材をいぶし、茅に虫が発生しないようにし、茅葺屋根の長期維持を可能にしてきた」とされるが、余分な煙を屋根全体でなく楼や小窓から逃がす工夫もされていたことを知る必要がある。

 瓦屋根が寺院やお城だけでなく、一般住宅にも普及するようになったのは、延宝2年(1674年)に、滋賀県の西村半兵衛という人が「平瓦と丸瓦を統一した、軽くて施工コストも安い桟瓦(さんかわら)を開発してから」とされる。そして時代が進み、屋上に瓦屋根の煙出しが採用されるようになるのは江戸時代の末期から明治初期の1800年以降のようである・・・各地の古民家の事例から判断。蔵と同様に富の象徴という側面は否めず、豪農、豪商、旅籠などの存在する地区に多い・・・滋賀、京都、奈良、兵庫など。

写真①②  仏子中心部にある3層に見える
  堂々たる煙出し楼ー例1












 












写真③  仏子中心部にある大型家屋の煙出し楼ー例2・・・平成30年の暮れに家屋全体取り壊されている。残念なことだが維持を強要することは無理。

 










  囲炉裏やカマドのある土間の上方の屋根に約90cm角の小さな楼(屋根面積半坪ほど)を作ったケースが多い。だが仏子の4基は。屋根全体の1/3~1/2ほどを占め、長さ450cm(2.5間)以上のものもある。群馬県の養蚕先進農家のものの影響を受けて、大きな楼を作ったように思え、養蚕との関わりもあったように思う(別注参照)。現在は煙出しの窓部分は無用の長物で、板でふさがれている。

写真④⑤ 仏子中部にあるものー瓦を補修したのか白い漆喰も目に付くー例➂

























写真⑥ 仏子西部。おしゃれにもハトが常時2羽、楼上にとまっている。なぜか?ハトは銅像なのだ。
写真⑦ 仏子中心部。庭内にある神社の煙出し楼と思うー異質な例















先進養蚕農家「田島弥平」邸の例
世界文化遺産に正式登録された「富岡製糸場と絹産業遺跡群」にも、先進的な養蚕農家「田島弥平」の蚕飼育の施設(伊勢崎市)に煙出し楼が含まれている(1863年設置)。このばあいは2階全体が蚕室で、そのうえ全体に長さ25m、高さ2m、幅1.8mの煙出し楼が乗り、温度調節を行った。
これまでの蚕を温めて飼う方法だったが、田島は温度を調整し涼しくして飼う「清涼育」を確立し、繭の生産力向上に貢献。革新技術の一つが、広い間口の煙出し楼である。

2.入間市扇町屋の煙出し楼
写真⑧ー街道に面した旅籠だったのではないか?


















3.近代家屋に煙出し楼のデザイン採用例
写真⑨⑩ー2階の明かり取りに利用した感じの2例



























仏子の地方創生ー皆で考えよう!

いま「地域活性化」や、その結果としての「地方創生」が全国的に叫ばれている。このブログは、仏子地区(野田や金子を含む)をさらに楽しく、住みやすく、外部の人も多く訪れる活力ある町にするためのものである。

地域活性化や地方創生という言葉は、元総務大臣の増田寛也氏ほかが「今のままでは全国市町村1,742のうちの896が消滅しかねない。東京への一極集中を改め、地域特性を生かし地方に活力をつけるべき」と、「地方消滅」(中公新書)で提言したことで、広がりを見せたと言ってよい。実際は「活性化・創生」という言葉そのものは文中にはない。しかし人口、世帯、年齢別人口、男女構成、出産数など数字を上げ、理詰めでその必要性を説いている。

増田氏は岩手県知事を経て総務大臣も経験し、地方・中央につうじた人だ。私が唯一書いた環境小説「成木川の早太郎」(文芸社―すでに絶版。H12年の静岡県教育委員会の推薦図書になった)を贈ったとき、丁重な礼状をくださったやさしい方でもある。本を贈ったのは某新聞に「環境問題に熱心な7知事」の1人として紹介されたからだ。

「地方活性化」「地方創生」と言っても居住人口の奪い合いや、そのためのアイデア合戦では意味がない。どこかが沈み、どこかが浮上するのでは±ゼロである。各地がそれぞれ①生活環境=豊かな自然、教育、文化・スポーツ、住宅、買い物先等、②就業環境=主婦を含め、地元や近隣に働く場がある、③福祉環境=子育てや介護の予算、施設、見守り等・・・こうしたなかで、無理なく居住者が増え、新生児が増え、地域人口が伸び、地域の経済が潤ってこそ、地方の持続的な活性化ができる。地方ごとに活性化の個性的な仕組みを構築して、日本全体が活気づくことが真の「地方創生」と信じる。 

表―1 仏子周辺の人口・世帯の推移
地区 年
平成18/1月
22/12
27/12
27/18(%)
仏子 人口
9,258
8,833
8,582
92.7
     世帯
(3,638)
(3,820)
(4,018)
(110.4)
野田 人口
8,780
9,344
9,459
107.7
     世帯
(3,195)
(3,601)
(3,825)
(119.7)
新光 人口
3,490
3,495
3,567
102.2
     世帯
(1,168)
(1,277)
(1,396)
(119.5)
新久 人口
4,426
4,402
4,159
94.0
     世帯
(1,597)
(1,725)
(1,749)
(109.5)
小谷田人口 
6,312
6,156
6,007
95.2
           世帯
(2,342)
(2,449)
(2,541)
(108.5)
合計 人口  
32,266
32,230
31,774
98.5
       世帯
(11,940)
(12,872)
(13,529)
(113.3)
  どこまでを「仏子地区」とするかの線引きはむつかしいが、上記の大字区分で見ると、世帯数は子供の独立など核世帯化で、総ての大字で増加している。しかし購買力を大きく左右する人口においては仏子、新久、小谷田といった早くに開発され、すでに宅地造成の余地のないところでは減少に転じている。仏子のばあい約10年(9年11ケ月)でー7.3%だ。あと10年経過すれば平成18年1月に比べれば85.9%の人口になる。

   仏子駅の乗降客数は、平成9年に17,497人だったものが、平成23年には12,917人と、人口減以上に26.2%も減少している。車による移動が増えたこともあるだろうが、大半は高齢化で通学・通勤年齢層が減った影響である。

 ともかく大字・仏子の人口減14%は、10年後に消費力が14%衰えることを意味し、一部の小売業やサービス業が撤退、公共サービスもカットということになり、生活環境は劣化する。これをどう防ぐか?地域活性化の重要なテーマである。

仏子周辺には地域活性化の数々の資源がある。まず自然の面ではヒノキが生い茂り、都心を遠望できる加治丘陵、遊歩道や広い河川敷を持ち、野球、グランドゴルフ、バべキュー、花火大会等を楽しめる入間川がある。ゴールデンウイークには30張りものテントのもとで、バーベキューの宴が展開されている。音楽や演劇を楽しめる昔の県繊維工業試験所分館だった文化創造アトリエのアミーゴもある。 

10年前ほどに地元・西武小学校に呼ばれ、3年生のある組で「入間川の美しさ」をしゃべったが、あとで担任の先生は「学級崩壊が世間で問題になっているか、西武小については周辺環境がよいのか、学級崩壊はまったくありません」と言われた。これこそ居住者環境の良さを物語ることで、外部にPRすべきことだ。 

見落としてはいけないのは、古代のアケボノゾウの足跡、メタセコイアの炭化木、海辺に生息する穴ジャコの穴に鉄分が溜まった蛇糞石も発見されている。蛇糞石のネット記事は仏子のみという貴重品だ。

また平安、鎌倉、室町時代に遡って祀られた三輪神社(金子側)、円照寺、高正寺、野田・白髭神社ほかの由緒ある神社・仏閣が多数ある。平安から室町時代に武蔵国を支配した武士団の武蔵9党に結びつく加治氏、金子氏の菩提寺も含まれる。両氏とも滅びたが菩提寺はその繁栄を偲ばせる実に立派なものである。地元の人からは「神社・仏閣など、さして珍しくない」というが、東京などの字ごとの「村の鎮守様」は、極めて簡素である。子供時代には境内で野球をし、ボールを屋根や壁にドカン、ドカンと当て、実に罰当たりなことしてきた存在だった。

また明治期以降には、製糸の手織り工場3軒、機械織り工場12軒、染色工場16軒が林立した時代があれば、第二次大戦中には軍の要請で出来た360人を雇用するメリヤス工場もあった。これらの構造物は残されていないが、地元の豊かさを示す白壁の土蔵は野田と地区に15蔵ほど、仏子地区に5蔵ほどあり、囲炉裏時代の煙を抜く煙出し楼も4軒ほどで見ることができる。

 いま川越は埼玉一の観光地だが、5回ほど大火を経験し、最後の大火は1893年(明治26年)だった。町域の1/3に当たる1,300戸が焼失した。大火で残った蔵がヒントとなり、豪商たちは競って白壁の蔵造りを採用した。戦後の一時期は、「蔵造りはヤボだ」とこれをパラペットで隠した時代がある。その後、その重厚さが再評価され、パラッペットを撤去し、さらに近年に電線なども地中に埋め、今日の繁栄へとつなげたのだ。

 新しいものは銀座、新宿、渋谷、池袋に行けば満あふれている。逆の流を創ろうとすれば、それは自然の素晴らしさや、歴史的に見て貴重なものを知ってもらうことだと思う。それは未来を担う地元の子供さんに、誇りを持ってもらうことにも通じる。

当方は50年にわたり、中小スーパーの店舗レイアウト・仕入・陳列・販売企画に至る実務指導を100件、またスーパーの出店のリサーチを北は青森から、南は鹿児島まで全国300地区以上で実施してきた。この際、農村部や都市部の消費者1万人以上とも会ってアンケートを採り(助手も入れ)、顧客の購買心理も研究し、「主婦の食のライフスタイル分析」の論文も書いていきた。農商工業者の活性化の一助となるアイデアも複数準備している。

ともあれ地元の自然、文化、歴史の素晴らしさを外部にも広くPRし、多くの人を散策客として、また定住者として地元に呼び込み、仏子地区のさらなる活性化を計りたいと思う1人。ぜひ地元の一般居住者、農商工者の皆様のご協力を仰ぎたい次第だ。

平成28年元旦
          仮称「仏子再発見の会」   発起人  近藤 穣
          経営コンサルタント歴50年(元中小企業診断士)
          H17~22年にかけHP「入間川の自然・人・心」発信者
          元・農協系月刊誌「家の光」「地上」の編集記者

地元グルメ探訪

地元グルメ探訪

入間川のイギリス海岸(宮沢賢治)と桜並木

 入間川は太からず細からず、見て、歩いて、運動して楽しめる川だ。写真①は元加治方面の上橋手前から、中橋方面を眺めたもの。手前のシルト層のもろい岩は、大雨のたびに少しずつ姿を変える・・・生き物のようである。太古のアケボノ象の足跡が見つかったのは、このウエーブしたシルトの地帯だ。太古のメタセコイアがスルメイカのようにのされた炭化木が、かつては普通に見られた(いまは姿がない)。この付近は秋にコスモスが乱れ咲く。春にはアユのオトリを売る小屋も建つ(H29年に撤去)。 

シルト層が川波に削られ、写真①のようにきれいなウエーブを描いている。年賀状に添付したところ、宮沢賢治の文章や詩を朗読する強烈なフアンである小中学時代の友人から、「イギリス海岸(賢治の小説題名=北上川の情景)とそっくり」と言われた。「入間川のイギリス海岸」と呼びたい。ただ形状の類似だけでない、北上川のイギリス海岸では炭化した樹木やクルミが出たり(入間川では炭化したメタセコイアが出る。対岸にはクルミの木が数本ある)、昔入江で海水が入ったのか牡蠣殻なども出る(入間川では下流500mほどで、海辺に住む穴ジャコの巣に鉄分が溜まった蛇糞石が出る)、など共通点が多いのだ。違いは北上川のイギリス海岸が泥岩、入間川は粘土と砂の混じったシルト層であること。

    シルト層は水を含むと堅い岩石のようだが、乾燥するともろく、ひび割れし時に50×50×200cmもの塊が台風時などに下流に流れ下り岸辺に漂着するが、しばらくたつと崩れて砂状になる。イギリス海岸も、流れの力やこの崩壊のため形を変える。

写真① アケボノ象の足跡が発掘されたシルト層の景観=イギリス海岸



写真②③(左)(下) 下流から上流を見たイギリス海岸







写真③ 削られた川岸はグランドキャニオンのようだ




写真⑤ (上)北上川の本物のイギリス海岸(地元・花巻観光協会資料より)   この光景も最近は水面下に沈み、常時見えない様子。上流の5つのダムの放水を年に1度抑え、川の水量を減らし泥岩が浮かび出るようにしているが、それでも見えないことも多い様子。  入間川の場合は19号台風で姿は変わったが、ウエーブしたシルトは今も常時川面に顔を出している。

   いずれにしても、他所にはない珍しく、かつ美しい川岸、川中の風景です。入間市としてもこの保存に積極的に取り組み、多くの人に静に見てもらう㏚が必要なはず。




    このイギリス海岸は2019年の19号台風で、岸部分が大幅に破壊され景観も半壊といった状態になりました。本ブログ「台風19号の爪痕ー入間川(仏子)の景観が半壊」を検索ください!南岸の土手続きの河川敷にあったクルミの木もすべて流れ去り、土に隠れていた一段高い位置にあったシルトのウエーブが出現しました(下の写真)。













付近の入間川の景観
写真⑥(右) 中橋側から見た河原にもシルト層が見える 

 北側の河川敷にはテニスコートあり、野球やグランドゴルフ等の出来る広い運動場がある。朝夕に散歩や犬の運動で訪れる人も多い。河原には沢山の野草があり、春の野草の花を観察するのも楽しみである。空き缶等のゴミ拾いをするひともいて、川岸はきれいである。 

南側の土手は300mほど続く遊歩道があり、昭和40年度代に植えられた桜が、春にはピンクの横断幕を作る。秋には曼珠沙華(彼岸花)が2~3万本も花を咲かせ、その数を年々増やしている。土手の南斜面には地元「入間リバーザイド」団地の住民が管理する花壇が伸びる・・・そしてチューリップ、アジサイ、白の曼珠沙華ほか四季の花が咲く・・・日々の散歩や散策には最適のコースである。年に数回、ボランティアの方が来て、土手の草刈もしてくれ、川際を散歩することもできる。

写真⑦ 南側の土手の曼珠沙華   写真⑧ 中橋たもとのJA手前を入ると遊歩道



一度当方のHPが縁で、「入間川の素晴らしさを話して欲しい」と言われ、川沿いの西武小学校の3年生か?に1時間話をしたことがある。このとき担任の先生は、「世間で学級崩壊が問題になっているが、本校は子育て環境が抜群のため、学級崩壊など皆無」と告げられた。 

残念なのは、子供さんが釣りやすいオイカワやハヤなどが、護岸工事の不備などで年々少なくなっていることだ。雑食性のコイが増え、卵の段階で食べてしまう・・・との話もある。上橋上流には、カワウとシラサギの集まる場所があったが、これも「最近の護岸工事でいなくなった」との地元写真家の嘆きも聞いている。自然の守り方の難しさを痛感する。