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2016年2月27日土曜日

龍園寺 (新久717)

椎の巨木と自然石の壁が美しい!

境内正面にある本堂は昭和42年に再建、左手の観音堂は大正3年の再建と、年代の新しい建物が中心。それだけに明るさが前面に出た真言宗の寺である。正式名称は龍岳山「龍園寺」で、真言宗智山派に属し、本尊は空虚空蔵菩薩だ。奥多摩新四国霊場第41番札所で、札所本尊は下記の千手観音菩薩。 














写真① 本堂
南一帯は狭山茶の主産地で、寺は加治丘陵の裾にあり陽当たりもよく、「狭山茶の記念碑」が太陽に面して建つ。裏側の墓地を登れば茶畑が眼下に展開する。

建物は新しい部類だが、歴史は古い。建仁の頃(1201~1204年)、この地を巡礼していた僧の寂蓮が、地元近くの小名田谷の井戸から出現した10センチほどの金の千手観音菩薩像を祀ったのが起源とされる。もともとは発見場所にあった井戸観音も、現在は境内にある。このあと何回も火災にあったが、宝永6年(1709年)に僧・俊誉が中興の祖となって再建された。











写真②  漢音堂


















 写真③ 椎の巨木


見どころは入母屋造りの多くのノボリで囲まれた観音堂だ。その前にそびえるくねくねした椎の大木も見落とせない。近代の優れた巨大オブジェといった風情がある。秋には椎の実拾いもできるようだ。次の見どころは、観音堂の北側の崖を支えたいくつもの自然石が美しい(写真)。












写真④ 自然石を集めた壁

四季に応じサクラ、サツキ、ツツジ、モミジ、イチョウ、ドウダンなどの花や紅葉が楽しめる。また1月16日に新久観音大祭、8月16日に観音例祭と盆踊り、12月10日前後の日曜に朝祭がある。なお裏手には「かま跡公園」があるが、これはかつて国分寺瓦を焼いた登り窯のあった跡とのこと。

2016年2月26日金曜日

入間川・仏子「遊歩道の桜」3月29日開花!!

令和6年は29日(金)開花・・・寒暖の激しい年だが、寒が勝り開花はすこぶる遅くなった。

令和5年は19日(日)開花…3月に入り気温急上昇で開花早まる

令和4年は23日(水)開花…22日は関東一円に雪。23日気温急上昇

令和3年は月17日(水)開花

 今年は暖冬と適度な雨で開花は早まった部類。19日は標準木はすでに2分咲き。リバーサイド団地の花壇でもすでにチューリップの花が開き、ビオラ等と春盛りの姿にある。

令和2年は月18日(水)開花

 今年は開花期に冷える日が続き3月15日に1輪咲き、その後足踏みし18日には白い蕾が多数になり、19日に指標木以外でも一斉に数十も咲いた。3輪咲きの特定ができず、開花日は18日(水)と後付け。 
 写真は3月19日の様子 ぜひ見に来てください。土手の遊歩道には4台のベンチがあり、ペンキも塗っておきましたので座っても鑑賞できます。土手の草刈りもされており、ブルーシートを広げ、花咲くしだれ枝をまじかにみることも可能です。

 遊歩道で桜を見ている方が、「ほかの地区では桜の古木の間に、新しい苗木を植えていますよ。ここでもすでに植えてから50年ほどたち、老木になり幹や枝が腐りかけていて危険。19号台風で2本の桜がさけたたとなればなおのこと、先々を考え桜の苗木を間ごとに植えるのが適切」とアドバイスしてくれた。地元自治会などで次を準備することが必要ではないか。

令和元年月24日(日)に開花       25日の開花状況


満開の4月3日の状況


 H30年度月23日(金)に開花

 入間川土手のサクラが23日にいっきに10輪以上も咲いた(リバーサイド31~32号棟の間の観測木)。
 平成29年が28日であったから、昨年より5日早いことになる。24日には上橋寄りの樹でも咲き、26~31日ころが見頃ではないか。

     今年、埼玉の他所より開花が遅れているのは、写真のように青梅や秩父の山々に残雪が多く、入間川の支流が冷たい雪解け水を運んで来るためではないか?実際、昨今の水量も例年に比し多い。 写真ー西武線側から見た西の山岳部は雪が一杯
写真2点ー3月28日。満開。いつもの年より白さが際立つ
    













     


昨年までの状況
 仏子の入間川の遊歩道には中橋~上橋にかけ、78本のサクラの巨木が並ぶ。3月下旬~4月上旬の開花期になれば、歩道はサクラのトンネルになり、対岸から見れば300mもの白の横断幕が映える。皆さんはサクラは根元より上方に咲くと思うだろうが、ここでは根元から3mも下に花が咲くケースもある。土手上に植わっており、土手の斜面に平行して下に突き出た枝も多い・・・そしてその落差が最大3mにもなり「しだれサクラ」のようになる。 


川が南西方向から北東方向へ流れる感じで、西日が当たりやすく、その分枝が南側に伸びるより、北の土手斜面側に伸びやすいためである。土手に坐われば、すぐ頭上は花一杯ということにもなる。   俳句 「枝垂れて 川面にキッス 桜花」
昭和28年 写真① 2月24日















写真② 3月19日        
つぼみがかなり大きくなった。
開花まであち1週間か?

写真③ 3月22日 ついに開花
 リーバーサイド31~32号棟の間の道路寄り
の枝で、ついに開花

















写真④⑤ 3月30日 8分咲き

   










昭和29年入間川土手3月28・29日開花
 仏子の入間川土手のソメイヨシノは、リバーサイド31号と32号棟の間の1本(やや早く咲く木)が23日現在、写真のとおり白く膨らみ、3月末には確実に開花。 
 3月28日、リバーサイド31・32号棟付近の3本の木で3~10花づつ確実に開花。
 

29年度

 3月28日(火) 都下府中市「多磨霊園」は2分咲き


28年度3月10日(日) 高遠城のコヒガンサクラ


地元のソメイヨシノは、すでに花1、葉9の時期である。車の往復時間だけで6時間・・・長野県伊那市の「天下第一のサクラ」とされる高遠城に飛び、コヒガンザクラを初めて見た。ソメイヨシノの白と違い、こちらはピンクの花びら。違った趣である。

明治8年ころから植えられ、樹齢130年に及ぶ老木を含め、約1,500本とされる。ソメイヨシノにくらべもっと時間差のある遅咲きと思っていたが、すでに満開。段丘上にある城跡は人人で、上野公園並みの賑わいだった。サクラは市内至る所に植えられたようで、三峰川沿いの眼下や、四方の高台にもピンクの花が咲き誇っていた。



   高遠美術館、江島囲み屋敷、歴史美術館、旧馬島家や旧池上家、川越のような昔のイメージで整備を進める商店街・・・と見どころが盛りだくさん。日帰りでなく1泊しないともったえない魅力の里であった。なお、民泊施設も整備されつつあるようだ。

2016年2月8日月曜日

「あんず幼稚園」に地下鉄電車がある! (仏子1089)


 園児の夢を乗せる場に

地下鉄・丸の内線をかつて走っていた400形電車440号が、仏子駅東北200mほどの「あんず幼稚園」に保存されている。鉄道ファンでない無知な当方は、初め西武線の電車かと思っていた。「赤い電車」と愛称で呼ばれ、車内は現在タタミ敷になっているようだ。いつまでも、園児の夢を乗せる場であって欲しい。
写真① 園内の400形電車440号 

 電車に親しむと、時刻表片手に小学校5~6年でも四国や金沢まで1人旅も出来るようになるもの。旅になれると今度は大人になりロシア、中国、台湾、マレーシア、インドネシア、オーストラリアと世界を雄飛する職業にも進んで飛び込める・・・これが45歳の我が息子の姿である=某飲食店チェーン現地法人のジェネラルマネージャー。

丸の内線は池袋―荻窪間を走り、昭和29年1月20日に開通した。当初は300形、後に400形、500形と変化したようだ。横幅はいずれも280cmのはずで、写真②は3形式に共通したプラモデルである。幅当方は49年間、終点の荻窪に住んでいたので、さんざん400形にも乗ったことになり、展示されている車両にも1度は乗ったかもしれない・・・懐かしさがこみあげてくる。

300形は外国のウエスチングハウス社と三菱電機が技術提携して造ったようだが、器用な日本のことで、400形は準国産に近いはず。

なお、車両は西武線を走ってはこばれたのではなく、夜間トラックを利用して運ばれたようである。トラックの夜間搬送が最も手軽でローコストとのこと。



2016年2月7日日曜日

豊泉寺=ふせんじ (中神691)

美しい庭園に菩薩の彫刻!!


豊泉寺(ふせんじ)は、多くの寺構えと違っている。朱のトタン葺なのが個性的である。すぐ裏庭に池を中心にした金閣寺を思わせる石を多数配した禅宗様式の庭園がある。さほど広くないが、小一時間でも座ってその静寂を味わってみたくなる。平成3年8月に市の指定文化財になっているが、地元の庭師・水村藤四郎氏により明治年間に作られたそうだ。

写真① 本堂正面


写真② 左右対の龍の彫刻



















写真③ 鐘楼―梵鐘は寛文9年(1669年)に作られたが太平洋戦争時に供出し、昭和39年に再建。直径72cm、重量450kg。




 














   曹洞宗の寺で、正式には松龍山豊泉寺。境内裏一帯が樹齢数百年の古松で、龍のような形をしているので松龍山を唱えた。本堂前には龍の石像が対で置かれている。

創建は天文元年(1532年)で、開基は小田原北条氏の家臣であった豊泉左近将監。金子郷の領主となったが、「関東争乱」で亡くなった父母と武士の冥福を祈るために建立した。しかし、寛保・延享時代に火災にあったので、古い文化財や古文書が焼失し、正確な記録がない。金子十郎家忠の館=城跡とされており、丘に囲まれた立地がそれを思わせる。

写真④ 市の指定文化財の庭園















写真⑤ 庭園を囲む西門


 庭園には写真の通り西手(北手にも)に門があり、それぞれ凝った作りである。また外側の庭地には狭山茶場碑もあれば、年代は新しいはずだが、菩薩像を彫った石柱など変わった彫り物がいくつもある。特に複数の菩薩像の美しさには目を見張る。






写真⑤ 超美人の菩薩像が多数彫られた石柱






















 

写真⑥ やはり美しい子供を抱いた菩薩像
写真⑦ これまた美しい菩薩像




















写真⑧ 可愛い子供像
写真⑨ 個性的な狛犬











 ここのご住職は彫刻や置物
が好きな様子で、以上のよう
に見ごたえのある彫り物が多
数置かれ、庭園とともに観賞
の余地がある。別途、梵鐘の
奥に「狭山茶の碑」あり。

2016年1月23日土曜日

仏子産の珍しい農産加工品-丸大豆醤油! 

 株・鈴木醤油店は手造りの本格派醤油  <地方創生>
 食品加工と言えば製茶も含まれ、金子地区には沢山の製茶工場があるが、大字の仏子や野田には茶畑がなく、製茶工場はない。こうした中で仏子・野田にある株式会社・鈴木醤油店は、仏子・名田地区の唯一の食品加工場と思われる。

 現在の社長の鈴木昭二さんは4代目だそうで、「100年の歴史があるが、起業した正確ないきさつや時期は不明」とのこと。しかし現在も直径180~240cmもある古くからの仕込み樽が10以上あり、天然醸造の丸大豆醤油が作られている。

写真① 商品のラインアップ


品目
容量
天然醸造丸大豆醤油
瓶 500ml
天然醸造丸大豆醤油
ポリ 1L
天然醸造丸大豆醤油
瓶 1.8L
天然醸造丸大豆醤油
ポリ1.8L
丸大豆再仕込しょうゆ
瓶 360ml

 こだわりは何か。①大豆はカナダ産だそうだが、非遺伝子組み換え認定品のみを仕入れる、②醸造には小麦も必要だが、地元埼玉産の小麦を使う(大豆6対小麦4ほどの使用割合)、③精製塩でなく原塩を使う、④天然醸造で2~3年かけて熟成させる、⑤一部機械を使うがほとんど手作業である。市販の大量生産品は、レッテルにも表示されているが、大豆の油脂を採った搾りかすが利用されており、ここが大きな違いである。

さらに「丸大豆再仕込み」(写真前列の左)」は、醸造して絞った生しょうゆに、再度丸大豆と小麦を加え仕込んだ(二度醸造)、最高級の手作り品で、うまみ成分をたっぷり含んだ豊かな味である。

 価格は表のとおりだが、ネットに出てくる他所の天然醸造ものと比べ安めである。いたずらに宣伝費を掛けず、なじみ客中心に販売しており、合理的な安さを実現している感じである。

立派なのは、まったく宣伝をせず商品に馴染んだ昔からのお客さんを大切にし、電話注文にしたがい宅配で個別に販売していることだ。店にしても地味・・・写真のとおりの店カマで、見本の品を置くだけ。今日のご時世では、中身が伴わない品を、大手のポータルサイドを利用し高く売り込む例も多いなかにあって珍しい存在である。

写真② 店舗の前面
    

 仏子地区の人は、ぜひとも珍しい地元商品としてギフトを中心に鈴木醤油の商品を利用して欲しい。ギフトはオリジナルな地元商品が最も喜ばれるものだ。そのうえ醤油は必需品で、貯蔵もきく。いくらもらっても無駄にはならない。写真③のように美しい化粧箱も用意されている。丸大豆と書かれた箱には500mlなら8本入るそうだ。配送は正確さを誇るヤマト運送の宅急便だ。仏子近在については、金額によっては自家配送もしてもらえる。

写真③ 美しい化粧箱

 配送費や化粧箱代を含む商品代は、天然醸造丸大豆醤油500mlが4本、丸大豆再仕込みしょうゆ500mlが4本入りのセットとして4千円をやや超える程度で(配達地域によりアップ)、ちょうど手ごろなギフトである。

住所:入間市大字野田709-1 中橋を渡り100m先を左折しすぐ左手
電話:04-2932-0555   株式会社 鈴木醤油店
(配送希望や正確な商品の本体価格が知りたい場合は電話で!)

2016年1月11日月曜日

加治丘陵の桜山展望台コース

加治丘陵の桜山展望台までのハイキングは、子供さんでも楽々なコース。南と北の2通りのコースがあるが、より楽な南コースだと、仏子駅の南口か北口を出て、丘陵越えの道に出て、武蔵野音大の入り口方面に折れ、音大キャンバスに沿った南側の道を登り、遊歩道の入り口に取り付くまでが20分・・・坂道ばかりで、ここまでがややきつい。ここから遊歩道に入り展望台までは、180cm幅のコンクリートの歩道が完備し、多少のアップダウンがあるくらいで約20分あれば展望台に到着できる。標高は189m。
写真① 南斜面から見上げた桜山展望台

したがって、展望台で一休みしても2時間ほどあれば往復できる。昔、サイクリング道路があったくらいで、遊歩道は自転車でもゆうゆうである。最近訪ねたときも、小学校3~4年の子供さんが4~5人で遊びにきていたし、サイクリング客にも出会った。近隣の夫婦2人とか1人の散歩客にも5分置きぐらいに出合い、「こんいちあ」の挨拶を交わすぐらいで、晴れや曇りでも昼間なら安全である。


写真② ヒノキが道の両側に林立

ヒノキが遊歩道の左右に林立し、時にナラ、クヌギも生えている。案内板によればメジロ、ウグイス、野ウサギ、タヌキにも出会えることも。加治丘陵全体では、ボランティアが14団体が入山し、森林の下草刈りや間伐、山道の整備をしているそうだが、何分にも丘と言え急傾斜なので林地に深いりするのは禁物。ときに「イノシシも出る」とされている。


桜台展望台は4層をなし20mの高さ。南西を向けば集落と茶畑の先に多摩丘陵が望め、南東を向けば都心のビル群が小さいながら遠望できる。展望台を写真に撮るのも楽しい。様々の方角から見ると、やや違った表情でそびえ立つからだ。展望台のすぐ先に神社もある。この先を下る道は急傾斜で5分もすれば上谷ケ貫地区の里に出てしまう。


写真③ (上)南西の狭山丘陵側の眺望
写真④   (下)南東の都心側の眺望


写真③ 都心側の眺望


すぐ先に青梅や入間駅に出るバス道路が走る。この沿道には手前の新久から金子駅にかけ20以上の茶園の座売り店舗がある。新久近くの龍円寺から始まり、豊泉寺、三輪神社、金子神社(山を下り上谷ケ貫のすぐ近く)、白髭神社、高養寺、金子十郎家忠の墓などもある。桜台展望台とこれらの茶園、寺社めぐりを組み合わせれば、充実した散策コースになる。

2016年1月1日金曜日

なぜ地域活性化・地方創生か?

    いま「地域活性化」や、その結果としての「地方創生」が全国的に叫ばれている。このブログは、仏子地区(野田や金子を含む)をさらに楽しく、住みやすく、外部の人も多く訪れる活力ある町にするためのものである。
写真:金子駅前にある茶畑・加治丘陵の散策案内看板ー自然をどう生かすかも課題

地域活性化や地方創生という言葉は、元総務大臣の増田寛也氏ほかが「今のままでは全国市町村1,742のうちの896が消滅しかねない。東京への一極集中を改め、地域特性を生かし地方に活力をつけるべき」と、「地方消滅」(中公新書)で提言したことで、広がりを見せたと言ってよい。実際は「活性化・創生」という言葉そのものは文中にはない。しかし人口、世帯、年齢別人口、男女構成、出産数など数字を上げ、理詰めでその必要性を説いている。

増田氏は岩手県知事を経て総務大臣も経験し、地方・中央につうじた人だ。私が唯一書いた環境小説「成木川の早太郎」(文芸社―すでに絶版。H12年の静岡県教育委員会の推薦図書になった)を贈ったとき、丁重な礼状をくださったやさしい方でもある。本を贈ったのは某新聞に「環境問題に熱心な7知事」の1人として紹介されたからだ。

「地方活性化」「地方創生」と言っても居住人口の奪い合いや、そのためのアイデア合戦では意味がない。どこかが沈み、どこかが浮上するのでは±ゼロである。各地がそれぞれ①生活環境=豊かな自然、教育、文化・スポーツ、住宅、買い物先等、②就業環境=主婦を含め、地元や近隣に働く場がある、③福祉環境=子育てや介護の予算、施設、見守り等・・・こうしたものが整ってこそ、無理なく居住者が増え、新生児が増え、地域人口が伸びる。そして地域の経済が潤ってこそ、地方の持続的な活性化ができる。地方ごとに活性化の個性的な仕組みを構築して、日本全体が活気づくことが真の「地方創生」で、政策の支援もあり今年は地方創生元年とされる。 

表―1 仏子周辺の人口・世帯の推移
地区 年
平成18年
1月
22年
12月
27年
12月
27年/
18年(%)
仏子 人口
9,258
8,833
8,582
92.7
   世帯
(3,638)
(3,820)
(4,018)
(110.4)
野田 人口
8,780
9,344
9,459
107.7
   世帯
(3,195)
(3,601)
(3,825)
(119.7)
新光 人口
3,490
3,495
3,567
102.2
   世帯
(1,168)
(1,277)
(1,396)
(119.5)
新久 人口
4,426
4,402
4,159
94.0
   世帯
(1,597)
(1,725)
(1,749)
(109.5)
小谷田人口 
6,312
6,156
6,007
95.2
世帯
(2,342)
(2,449)
(2,541)
(108.5)
合計 人口  
32,266
32,230
31,774
98.5
  世帯
(11,940)
(12,872)
(13,529)
(113.3)

  どこまでを「仏子地区」とするかの線引きはむつかしいが、上記の大字区分で見ると、世帯数は子供の独立など核世帯化で、総ての大字で増加している。しかし購買力を大きく左右する人口においては仏子、新久、小谷田といった早くに開発され、すでに宅地造成の余地のないところでは減少に転じている。仏子のばあい約10年(9年11ケ月)でー7.3%だ。あと10年経過すれば平成18年1月に比べれば85.9%の人口になる。14%も消費力が衰えれば、一部の小売業やサービス業が撤退、公共サービスもカットということになりかねず、生活環境は劣化する。これをどう防ぐか?地域活性化の重要なテーマである。

仏子周辺には地域活性化の数々の資源がある。まず自然の面では杉、ヒノキやスギ等が生い茂り、都心を遠望できる加治丘陵、遊歩道や広い河川敷を持ち、野球、グランドゴルフ、バべキュー、花火大会等を楽しめる入間川がある。ゴールデンウイークには30張りものテントのもとで、バーベキューの宴が開かれている。音楽や演劇を楽しめる昔の県繊維工業試験所分館だった文化創造アトリエのアミーゴもある。 

10年前ほどに地元・西武小学校に呼ばれ、3年生のある組で「入間川の美しさ」をしゃべたが、あとで担任の先生は「学級崩壊が世間で問題になっているか、西武小については周辺環境がよいのか、学級崩壊はまったくありません」と言われた。これこそ居住者環境の良さを物語ることで、外部にPRすべきことだ。 

見落としてはいけないのは、古代のアケボノゾウの足跡、メタセコイアの炭化木、海辺に生息する穴ジャコの穴に鉄分が溜まった蛇糞石も発見されている。蛇糞石のネット記事は「仏子のみ」という貴重品だ。

また平安、鎌倉、室町時代に遡って祀られた三輪神社(金子側)、円照寺、高正寺、野田・白髭神社ほかの由緒ある神社・仏閣が多数ある。平安から室町時代に武蔵国を支配した武士団の武蔵9党に結びつく加治氏、金子氏の菩提寺も含まれる。両氏とも滅びたが菩提寺はその繁栄を偲ばせる実に立派なものである。地元の人からは「神社・仏閣など、さして珍しくない」というが、東京などでは、字ごとの「村の鎮守様」はあっても、極めて簡素である。子供時代には境内で野球をし、ボールを屋根や壁にドカン、ドカンと当て、実に罰当たりなことしてきた存在だった。

また明治期以降には、製糸の手織り工場3軒、機械織り工場12軒、染色工場16軒が林立した時代があれば、第二次大戦中には軍の要請で出来た360人を雇用するメリヤス工場もあった。これらの構造物は残されていないが、地元の豊かさを示す白壁の土蔵は野田地区に15蔵ほど、仏子地区に5蔵ほどあり、囲炉裏時代の煙を抜く煙出し楼も仏子に4軒ほどで見ることができる。

 いま川越は埼玉一の観光地だが、5回ほど大火を経験し、最後の大火は1893年(明治26年)だった。町域の1/3に当たる1,300戸が焼失した。大火で残った蔵がヒントとなり、豪商たちは競って白壁の蔵造りを採用した。戦後の一時期は、「蔵造りはヤボだ」とこれをパラペットで隠した時代がある。その後、その重厚さが再評価され、パラッペットを撤去し、さらに近年に電線なども地中に埋め、今日の繁栄へとつなげたのだ。

 新しいものは銀座、新宿、渋谷、池袋に行けば満あふれている。逆の流を創ろうとすれば、それは自然の素晴らしさや、歴史的に見て貴重なものを知ってもらうことだと思う。それは未来を担う地元の子供さんに、誇りを持ってもらうことにも通じる。

当方は50年にわたり、中小スーパーの店舗レイアウト・仕入・陳列・販売企画に至る実務指導を100件、またスーパーの出店のリサーチを北は青森から、南は鹿児島まで全国300地区以上で実施してきた。この際、農村部や都市部の消費者1万人以上とも会ってアンケートを採り(助手も入れ)、顧客の購買心理も研究し、「主婦の食のライフスタイル分析」の論文も書いていきた。農商工業者の活性化の一助となるアイデアも複数準備している。

ともあれ地元の自然、文化、歴史の素晴らしさを外部にも広くPRし、多くの人を散策客として、また定住者として地元に呼び込み、仏子地区のさらなる活性化を計りたいと思う1人である。ぜひ地元の一般居住者、農商工者の皆様のご協力を仰ぎたい次第だ。

平成28年元旦
          仮称「仏子再発見の会」   発起人  近藤 穣
          経営コンサルタント歴50年(中小企業診断士303023)
          H17~22年にかけHP「入間川の自然・人・心」発信者
          元・農協系月刊誌「家の光」「地上」の編集記者