top画像

top画像

解説

解説

ラベル2

ブログ アーカイブ

連絡フォーム

名前

メール *

メッセージ *

2015年12月28日月曜日

円照寺(野田158)


池と池のコイに癒され、鎌倉幕府の滅亡伝える! 

 正式名称は「光明山正覚院 円照寺」である。真言宗智山派の寺。武蔵野観音霊場22番札所、武蔵野七福神の唯一の女性・弁財天を祀る寺でもある。武藏7党の丹党(高正寺の項に注釈)の流を継ぐ加治太郎実家は飯能から秩父地方にまたがる地域を支配し、加治氏を名乗る武士集団。実家の弟の家季が元久2年(西暦1205年)に二俣川の戦いで討ち死にしたあと、その子の家茂が父の供養のため、円照上人に開山させたのが円照寺であり、加治氏の菩提寺である。
写真① 美しい池の向うに見えるのが本堂(左)と客殿(右)

  写真② コイが多数泳ぐ池
 西武線の元加治駅から5分ほどの便利な立地であり、付近に住宅も張り付き、このため子供連れで来たり、子供だけで来て遊んでいる姿もよく見かける。というのも庭内の中心に大きな池があり、美しいコイが沢山泳ぎ、公園的な雰囲気だからだ。池の上に鉄線を傘状に張り、水鳥の着水を防ぎ、コイが伸び伸び泳ぎ回り、かつ水辺の植木の管理も充分にされているので、どこから写真を撮っても絵になる。




 











写真③ 山門と板壁・白壁

 山門とその両サイドの板塀、これに続く白壁、さらに山門前の自然石の配置なども実に味わいのあるものだ。

そして池を囲むように不動堂、本堂+客殿、鐘楼、弘法大師堂があり、池の島に弁財天堂がある。北向きの不動堂は屋根のそり返りが美しく、朱塗りの扉が映える。弁財天堂も池に浮かぶ白壁の堂でこれまた映える。

本堂には加治氏の守り本尊である行基作(奈良時代の僧?)の三尊阿弥陀如来像が祀られている。また客殿には有名人の描いた絵馬が多数飾られているようだ。

貴重品の一が、高さ137cm、幅38cm、厚さ5cmの「板碑」である。文化庁の有形文化財になっているが、七言絶句の伝えなども記されているが、問題は碑が建立された元弘三年(西暦1333年)五月十二日の銘である。この日は鎌倉幕府滅亡の日である。同時に加治家貞が北条氏に味方し、新田義貞軍に敗れた加治氏滅亡の日でもあるのだ。栄枯盛衰を教えてくれる貴重な寺である。













写真④ 不動堂

















写真⑤ 弁天堂
















写真⑦ 鐘楼




円照寺門前  元加治駅2分 裏手を入間川に下ると「入間川のイギリス海岸」

買物・ATM・トイレ
ローソンスリーエフ元加治駅南店
野田52-1
















2015年12月24日木曜日

仏子・野田地区ー門・板塀他・朱の屋根

近代史の遺品を大切に!  <地方創生>
1.瓦葺の門      
 お寺のような、威風堂々とした瓦ぶきの門は2基ある。門そのものと、袖塀は木製だが、袖塀の上にも狭い瓦屋根が乗り、くぐり戸があることや、その位置も共通している。同じころ設置されたはずである。


写真①② 瓦葺の門ー2点




























2.朱トタンの門と屋根
 写真③ 赤いトタン屋根の門も、堂々としていることに変わりない。脇につながる板塀の色との調和も良い。




















写真④ 仏子には写真の家の他にも、赤いトタン屋根の家が駅近くに2軒ある。瓦葺に比し維持が大変だが、ぜひ守って欲しいもの・・・最近改装されてしまった。





















写真⑤⑥ 文化創造アトリエ「アミーゴ」の屋根や金子側にある豊泉寺(ふせんじ)の屋根も朱のトタンが使われている















トタン屋根の効用と今昔
 
 1.昔の茅葺屋根に比べ、トタンなら雨に対応しやすい。
2.コストも安くついた。
3.つぎたしつぎたしで、屋根の形にも自由に対応できた。
4.塗装や部分的に修理すれば楽に50年でも持つ。
このため.戦後でも平屋建て家屋が多かった時代は、建坪がワイドのため、居間を取囲む廊下や縁側の上部、また窓の上部につける屋根はトタン葺が普通だった。軒下に直に雨が当たらないよう、樋(とい)を使えば、遠くに雨を流すこともできたからだ。
近代になり2階建て家屋が増え、建坪が減り、屋根の面積も減り、少々高いが瓦やスレート屋根が急増。屋根も急角度になり、樋を使えば自由にコントロールでき、トタン屋根は急速に消えた・・・と見てよい。それだけに朱のトタン屋根は貴重な存在で、映えもする。

3.板塀・白壁・レンガ塀
 板塀はどこも共通して屋根があり、内側から斜めの柱で補強してある。また土台の石はコンクリートだったり大谷石だったりだが、土台の石と土台に接する横木の接合は切り込みによって頑丈に接続されている。だからこそ台風ほかの風雪にも耐えてきたのだ。板塀は神社にもつきものである。
写真⑤ 写真①と連動した黒塗りの板塀だ-これは珍しい

 















写真⑥ 写真③につながる板塀である












写真⑦  現在は修理がされているが、黒々とした板塀に風との戦いの美しさがある。・・この塀はプラスチック素材の板塀に変わっている。
写真⑧ 板塀は内側から斜めの支えをし。風雪に耐える強さを発揮。














写真⑨⑩ 板壁の土台はコンクリートもあるが、多くは大谷石が使われ、これに角材の土台を乗せ、石と木材を切り込みでしっかり組み合わせている。

















写真⑪  白壁は寺院建築の一部かもしれない。円照寺、長徳寺(共に野田)など長い白壁に囲まれている。写真は長徳寺の白壁。



















写真⑪ 石組の上にレンガを積んだ塀も極めて珍しい。塀の中には小さな神社が祀られていた。元加治駅の南方向。











仏子・野田地区ー白壁の土蔵

    半農半織物が豊かさ→蔵の林立 <地方創生>
個人のお宅に存在するので、住所は明確にしません。
場所が分かっても、さりげなく、騒がず見てください。


   白壁の土蔵はいつごろの時代から作られたのか。戦国時代になり鉄砲が使われるようになり、この防御のため城に厚さ30cmの土壁、そしてシックイ(漆喰)を表面に塗る白壁がまず登場し、江戸時代後期になり多くの大火も経験し、豪農や豪商を中心に火災や盗難に強い、白壁の土蔵作りが広がって行ったように思う。農村部でも庄やと云われる家に白壁の土蔵が多く見られる。港町や河川交通の要衝にも、廻船問屋の店舗と倉庫を兼ねた白壁の土蔵がいまも多く残っている。いづれにしても、豊かさのシンボルでもあった(守るべき財産が多い)。


 実際「日本の蔵と収納」についての研究者の解説を見ても、倉・庫・蔵はいずれも「くら」だが、倉は食の字と口が合体したもので、元来は穀物を収納する場所、庫は兵車を収納する場所、そして蔵は「収蔵する内容よりも行為を指し、資産を貯蔵する場所」として社会・経済的地位を象徴するもの」とある。 


 仏子地区にも野田に15基ほど、仏子に5基ほど白壁の蔵が残っている。野田の場合、特に中橋を渡って100mほどいった道路の左右に多い。仏子地区には製糸の手織り工場3軒、機械織り工場12軒、染色工場16軒が林立した時代があり、「就職先にこまらなかった」とされ、半農・半機織の多い豊かな地区だったことは間違いない。この繁栄に寄与したのが元加治出身の故・平岡徳次郎氏(別記)である。


1.野田東部の蔵 
   写真(下) 狭山市寄りの蔵。所有者の話では「江戸時代に建造。道路工事で100m?ほど移設したとのこと。白壁の裾の方が一部崩れており、確かに古そうだ。





















写真(下)この蔵は東と西の家紋が異なっている・・・こうしたことがよくあるのか
は未調査。


写真 この蔵の窓は、天気の良い日は必ず開いて通風に努めている様子。















 






2.野田西部の蔵

写真(下) パステルカラーの現代建築と白はよく調和する。














写真(下) 同じ蔵の東面と西面。西側はツタが巻き付き風情あり。                  
    


写真(下) 蔵のある家には必ずのように柿木もある。赤と白とのコントラストが映える。


























写真(下) 今も蔵を常時利用しているようで、蔵の周りに活気がある。3代めに当たる当主のはなしでは、「この蔵は地域で最も新しく建てられたそうだ。だから大っきい」。建て方も他と異なる・・・屋根の下に梁があり、空気が出入りする隙間もあるようだ。母屋から離れ、火災が起きても炎で類焼することがないとの判断で、換気を優先したのでは。1階、2階の各扉は現在は常時開けっ放しである。1階扉は片方だけで300kgもありそうで、「重いため開け閉めをしていたら壊れてしまう」との話。また「現在は肥料や農薬などを保管し、貴重ひんなどは入っていない」そうだ。 庭に社(やしろ)があり、7トン、5トン、3トンといった巨石も置かれている。蔵も豊かさの象徴として明治2年生まれの2代めが、明治末期に建てたのではないか。 





















3.仏子エリアの蔵
写真(下) 庭側(北側)と西武線の線路側(南側)からの撮影だ。 















写真 (下)蔵 通常の2倍の広さの蔵で、入り口も二つある。




















写真 (下)蔵、板塀、煙出し楼の3拍子揃ったお宅の蔵である。




平岡徳次郎の湖月会-その高級織物が全国制覇!
 明治から大正にかけ、湖月会という組織を作り、高級織物の生産―集荷―販売の一貫体系にまとめ、「湖月」ブランドで全国を席巻したのが、元加治出身の平岡徳次郎である。
 平岡氏は仏子で平岡商店(屋号「八」)を創業したが、織物の中心所沢に明治38年に店を出し、同業組合のまとめ役もしつつ、大正6年に独自に湖月会組織を作り、主要百貨店とも取引し、全国に名をとどろかした。このため飯能ほかの技術基盤がある有力な機織業者を組織し、製品企画を立て、織った製品を全量買取り、一元販売する・・・といった先進商法を採用した。
 当時の有力婦人雑誌の「婦女界」にも毎月広告を出した。
以上から元加治、野田が大変豊かな地区であったことは間違いない。大正11年には57才で武蔵織物同業組合第3代の組合長に就任。
(平岡氏は慶応元年生、昭和2年に62才で没)

























高正寺(仏子1511)

加治丘陵にそびえる鐘楼と入間市最古の板碑

     写真③ 本殿    
    正式には「諏訪山萬齢院 高正寺」で、当初は真言宗であったが、建立から約300年後に禅宗の曹洞宗に改宗した禅宗の寺。奥多摩新四国八十ハケ所の第69番札所。武蔵野三十三観音霊場の第21番札所。本尊は虚空蔵菩薩。札所の本尊は聖観音。

 

 金子の地名につながる金子氏の初代・家範の子である「金子余市近範」によって鎌倉時代の末期に当たる健保年間 (1213~1218年)に建立されたもの。  


本ブログの扉ページに採用したくらいで、加治丘陵の北側斜面に沿って建てられ、斜めに総門、その後ろに鐘楼門が高くそびえ景観をなす。門の上に鐘楼があるので、その高さは屋根の頂上まで7.2mもなる。総門から15m近い高さだ。鐘楼の先の本堂は平面で結ばれ下から見えない。ともかく傾斜地のため、桜、梅、つつじなど庭木や建造物、墓地等が、美しいパノラマをなし、美しさに吸い込まれる。

写真② 「諏訪山」の額の総門








写真③ 高さ約7.3mの鐘楼門


    庭内には羅漢像16、巨大な鬼瓦、大きな仏の足跡の石板などが置かれ、市の文化財に指定されている板碑5基の保存小屋もある。この板碑の一つは、市内最古のもので建長2年(1250年)のもの・・・並べられた順序で写真の左から2番目のもの。鬼瓦はどこに飾られていたか知らないが、高さ150cm、横幅450cmはありそう。


 写真④ 市の文化財の石板


 写真⑤ 巨大な鬼瓦










写真⑥ 近年寄贈の仏の足跡
写真⑦ 羅漢像

    本堂の裏には大黒天を祀った招福殿というお堂もある。このほか延命地蔵、地蔵像(19体)の小屋、もあって、見ごたえがある。
 写真⑧ 地蔵小屋 左右16体








写真⑨ 延命地蔵








 「左馬助」さんという方のブログによれば、「金子親範の館があった場所ではないか」と推定している。背後が山であり、手前に堀を思わせる流があり、砦を構えるに値する地形からの判断のようである。その後に菩提寺が建立されたとしても不思議ではない。


金子氏と武蔵七党について  Wikipediaより
 平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて、武蔵国を中心に
下野、上野、相模にも勢力を拡大した武士団の総称を「武蔵七
党」という。武蔵国は台地が広がり、牧畜に都合がよく、帰化
人が馬飼部として多くの牧場を設け、その管理者のなかから多くの中小武士団が生れたとされる。
ところで武蔵七党は、実際には次のように九党とされる。
横山党、猪俣党、野与党、村山党、児玉党、西党、丹党、綴党、私市党
 このうちの村山党から分かれたのが金子氏である。村山党は 武蔵国多摩郡村山郷、現在の入間川付近に勢力のあった一族で、野与党と同族。先祖は桓武平氏の平基宗(元宗と同一人物とされる)で、子供の基永が野与党となり、同・頼任が村山党となる。そして、頼任の子である頼家の子(頼任の孫)の1人である家範が金子氏を名乗り、その2代め近範が高正寺建立。  
 なお武藏七党の丹党から生まれたのが加治氏で、円照寺建立。





高正寺から3分    仏子駅から8分

買物・ATM・トイレ
セブンイレブン入間仏子西店
仏子354-1


高正寺から2分   仏子駅から6分ほど

日本そば・他飲食
さんぽ径・・・こだわりそばの店
仏子397-5

















































 
 





















庭内には羅漢像16、巨大な鬼瓦、大きな仏の足跡の石板などが置かれ、市の文化財に指定されている板碑5基の保存小屋もある。この板碑の一つは、市内最古のもので建長2年(1250年)のもの・・・並べられた順序で写真の左から2番目のもの。鬼瓦はどこに飾られていたか知らないが、高さ150cm、横幅450cmはありそうだ。

 本堂の裏には大黒天を祀った招福殿というお堂もある。このほか延命地蔵、地蔵像(19体)の小屋、もあって、見ごたえがある。










金子氏と武蔵七党について  Wikipediaより
 平安時代後期から鎌倉・室町時代にかけて、武蔵国を中心に
下野、上野、相模にも勢力を拡大した武士団の総称を「武蔵七
党」という。武蔵国は台地が広がり、牧畜に都合がよく、帰化
人が馬飼部として多くの牧場を設け、その管理者のなかから多くの中小武士団が生れたとされる。
ところで武蔵七党は、実際には次のように九党とされる。
横山党、猪俣党、野与党、村山党、児玉党、西党、丹党、綴党、
私市党
 このうちの村山党から分かれたのが金子氏である。村山党は
武蔵国多摩郡村山郷、現在の入間川付近に勢力のあった一族で、
野与党と同族。先祖は桓武平氏の平基宗(元宗と同一人物とされる)で、子供の基永が野与党となり、同・頼任が村山党となる。そして、頼任の子である頼家の子(頼任の孫)の1人である家範が金子氏を名乗り、その2代め近範が高正寺建立。
 なお武藏七党の丹党から生まれたのが加治氏で、円照寺建立。